天神様と東照権現

今日はマイクロソフトのセミナーに朝から参加するつもりで、前回の会場であった厚生年金会館へ行ってしまいました。会場は広岡の金沢パークビルだと駐車場に入ってから気付いたのですが、もう遅れることは確実だったので、折角のことですから近くの「金沢くらしの博物館」で開催中の「天神堂展」を見に行きました。
金沢くらしの博物館 天神堂展
金沢くらしの博物館 天神堂展
金沢では初代藩主前田利家が菅原道真の子孫ということになっているので、天神信仰がさかんであったのですが、(おそらく一部の裕福な家では)正月に男の子の成長を願って「天神さん」を飾るのが風習として残っています。
内部は写真撮影ができなかったので写真はありませんが、市内から集めた天神堂が教室に(くらしの博物館は元紫錦台中学校校舎)所狭しと並べられていました。大きなものでは奥行き2メートルを超えているかというものもあり、やはり大きな家でないと飾る場所はありませんね。
金沢くらしの博物館 天神堂展
続けて、玉川図書館に隣接する近世史料館に「尾崎神社展」を見てきました。
近世史料館 尾崎神社展
近世史料館 尾崎神社展
普段は本殿奥に収蔵されている品々が、現在本殿を修復工事中ということもあって展示されているもので、貴重な文化財を間近に見ることができました。現品は間違いなくすばらしいのですが、展示室におかれた展示品パンフレットの出来がまた良いですね。
近世史料館 尾崎神社展
この2箇所の場所は入館料が無料ということで年末お勧めの歴史スポットです。初めて入った近世史料館でしたが、入口にはビデオコーナーもあり、「藩主群像」(9分)、「城下図を歩く」(8分)、「兼六園のうつりかわり」(7分)という3本のビデオを鑑賞できます。今日は城下図を歩くを見てきました。

松波城跡庭園 枯山水遺構の構造判明

能登町教育委員会は17日、同町松波の県指定史跡松波城跡庭園跡の今年度発掘調査で、石組みで水の流れを表現した「枯山水」の遺構の構造や、付近を流れる松波川で採取された石を使用していることなどが明らかになったと発表した。
枯山水の遺構は1962年の公園整備中に見つかり、80年度に発掘調査が行われた。今回の調査では、枯山水は渦巻き状に敷き詰められた地点から水が湧き、幅0.3-1.3メートル、長さ約7メートルを流れ、池状遺構に流れ込む様子を石組みで表現していたことが新たに分かった。
来年度は遊歩道などを調査し、庭園の全容解明を目指す。(北國新聞2008年12月18日付記事より)

金沢城石垣回廊 鼠多門コース

県体育館
いよいよ解体工事の始まった県体育館を支える石垣を巡るコース「鼠多門コース」。先日そこを歩いてきました。今回の案内は逆回りです。
金沢城石垣回廊 鼠多門コース
終点は金沢城西側に隣接する丸の内駐車場内にある「数奇屋屋敷西方の堀縁石垣」です。
金沢城石垣回廊 鼠多門コース 金沢城石垣回廊 鼠多門コース
丸の内駐車場脇の歩道に残る櫓台「玉泉院丸鼠多門続櫓台石垣」です。
金沢城石垣回廊 鼠多門コース 金沢城石垣回廊 鼠多門コース
このコースの名称にもなっている「玉泉院丸鼠多門周辺の石垣」。このコースの一番の見どころです。窪んでいる場所が尾山神社に向かって橋が架けられていた部分であり、その上部によくみると門の柱を立てた跡がわかります。
金沢城石垣回廊 鼠多門コース 金沢城石垣回廊 鼠多門コース
そして、修復工事が終了した「玉泉院丸南西の石垣」です。
金沢城石垣回廊 鼠多門コース 金沢城石垣回廊 鼠多門コース
コースは歩道を少し進んで、体育館の南側、いもり坂入口に続く部分に入ります。舗装も終わり、石垣がよく見えるように除草されていました。
金沢城石垣回廊 鼠多門コース
解説板は「いもり堀の石垣」となっています。旧テニスコート部分はいもり堀復元に向けて工事の真っ最中ですが、ここにいもり堀を掲げるのであれば、飛び地で堀を復元してほしいですね。
金沢城石垣回廊 鼠多門コース 金沢城石垣回廊 鼠多門コース
入口の看板はいもり坂入口から見えるように大きく掲げられています。
金沢城石垣回廊 鼠多門コース

金沢城河北門復元 二の門櫓と土塀石垣工事真っ最中

久しぶりの金沢城です。記名会まであともう少しですね。
金沢城河北門復元
一の門やニラミ櫓台周辺の工事が非常に進んでいました。土塀の台となる石垣がすでに3段ほど積まれていました。手前の石垣は土塁で隠されると思いますので、見えるのは今だけです。
金沢城河北門復元
金沢城河北門復元
二の門の木工事も一層部分の枠組みがほぼ組み終わり、今週から二層部分に着手するようです。前回来たときは、まだ一層の隅柱を立てていたところでしたが、木工事は早いですね。
金沢城河北門復元
金沢城河北門復元
木工事も進んで見学客の問い合わせが多くなってきたのか、工事予定の掲示が増えていましたよ。
金沢城河北門復元

加賀藩塩硝蔵跡発掘現場 今年度はトレンチ3箇所

10月末から開始された加賀藩塩硝蔵跡発掘ですが、年内には埋め戻しが始まるかと思い、その前に状況を見てきました。時折雨のちらつく天候でありますので、もちろんトレンチの穴はブルーシートで覆われており、その下の状況はわかりませんが、側面を中心に見てまわりました。
加賀藩塩硝蔵跡発掘現場
今年は昨年のトレンチ付近を3箇所トレンチされており、これで倉庫の範囲はほぼ確定したのでしょうか。まだ発表もないので何もわかりませんが、昨年は確か2箇所でしたので、短期間にしては進んだほうですね。
加賀藩塩硝蔵跡発掘現場
側面には多くの赤瓦が見えますが、いつの時代のものでしょうね。
加賀藩塩硝蔵跡発掘現場
一番北側のトレンチには礎石らしき石がありました。今年は説明会に参加したいのですが、昨年はいつの間にか開催されていましたから、いつでしょうか?
加賀藩塩硝蔵跡発掘現場
近くのえんしょう坂の入口には真新しい辰巳用水の看板が立っていました。何らや観光地化が進んでいるようです。
辰巳用水

「織豊期の史料と権力」 織豊期研究会「織豊期研究」第10号刊行記念シンポジウム

織豊期研究会の機関誌である「織豊期研究」の第10号発行記念としてのシンポジウムに参加するために名古屋にやってきました。入会して2年目でありますが初めて参加しました。名古屋はなかなかに遠いですからね。例会はさらに遠い三重大学だったりします。
「織豊期の史料と権力」 織豊期研究会「織豊期研究」第10号刊行記念シンポジウム
会場は、名古屋大学文学部です。教室に入ると、何か学生時代に戻ったような感じです。
「織豊期の史料と権力」 織豊期研究会「織豊期研究」第10号刊行記念シンポジウム
当研究会は織豊期の史料研究が中心であるので、それに即した講演会ではありましたが、在野の私には少々難しい内容でしたが、三鬼先生の総括的な講演のあとの新進気鋭の研究者の方々の発表に熱気のこもる会場でした。
「織豊期の史料と権力」 織豊期研究会「織豊期研究」第10号刊行記念シンポジウム
シンポジウムの質疑応答も盛り上がり、質問者の中には、同じ金沢から来た金沢城調査研究所の木越氏の姿もありました。
配布された資料も多く、講演が資料の補足か?と思わせる量にビックリ!!ですが、いつかは自分の研究にも活かされる!?(ほんとか)と思います。
「織豊期の史料と権力」 織豊期研究会「織豊期研究」第10号刊行記念シンポジウム
尚、今回のシンポジウムの次第は以下のとおり。
記念講演
 三鬼清一郎 豊臣秀吉文書の史料学的考察
シンポジウム 織豊期の史料と権力
 斎藤夏来 織田氏嫡流の形成と五山文学
 小久保嘉紀 織豊期における書礼札故実の集積と、近世故実書の成立への展開
 太田光俊 益田少将の発給文書
 谷口央 検地帳と権力
 長屋隆幸 「戦功書上」の成立について
関係者の方々ご苦労様でした。

辰巳用水の三段石垣 藩政期1メートル超高く

犀川に面した斜面にあり、最上部に辰巳用水が流れる三段石垣の金沢市の発掘調査で4日までに、藩政期の三段石垣は現在の見た目よりも1メートル以上高く、地表から7-9メートルの高さを誇っていたことが分かった。さらに周囲の地層から犀川の砂礫土が見つかり、同市埋蔵文化財センターは石垣が犀川の水流から浸食を防ぐ目的で構築された可能性が大きいとみている。
全長約260メートルの石垣のうち、中央付近の上段と下段を調べた。このうち下段の石垣周辺を掘り下げた結果、石垣部分が地表面から石4列分埋もれた場所まで続くことが判明。石垣を覆っていた土砂は明治以降に堆積したとみられ、埋まっていた石垣の延長部分はかつて地表に出ていたという。
上段の調査では、石垣の後ろからこぶし大から人頭大の裏込め石が見つかり、岩盤質の傾斜面を整えていた。道具などの遺物は発見されなかったが、市は後日、今回の発掘成果を石垣の専門家に依頼し、三段石垣の構築時期の推定を目指す考えである。(20008年12月5日付記事より)

シンポジウム 「江戸城と金沢城の御殿」開催

金沢城大学公開講座
シンポジウム 「江戸城と金沢城の御殿」
金沢城の政治の中心、二ノ丸御殿の内部はどんな姿だったのか、江戸城と比較し検討します。
日時:平成21年1月10日(土) 午後1時から4時40分
会場:石川県文教会館ホール 金沢市尾山町10-5
費用:入場無料
内容:
<基調講演> 「篤姫の時代の江戸城」 平井聖氏(昭和女子大学前学長)
<報告1> 太田昌子氏(金沢美術工芸大学教授)
<報告2> 伊東龍一氏(熊本大学教授)
<パネルディスカッション>

金沢城鼠多門 復元の可能性を調査

石川県議会12月定例会は2日、本会議を再開し代表質問のなか、金沢城復元整備で谷本知事は2014年度までの第二期復元整備計画で予定される、玉泉院丸跡地の整備計画策定に併せ、玉泉院丸の入り口に当たる鼠多門の復元の可能性について、調査する考えを明らかにした。
鼠多門は1884(明治17)年まで現存し、先月下旬に石垣回廊「鼠多門コース」が開設した。かつて門から金谷出丸(現・尾山神社)までは鼠多橋で結ばれていた。
谷本知事は鼠多門を含む玉泉院丸跡地一帯を「城と中心市街地が一体となって、にぎわい創出につなげる大切なゾーン」と位置付け、跡地の整備計画策定にあたり、中心市街地側のエントランス機能の確保が重要と強調。鼠多門復元について、玉泉院丸跡地の整備計画を策定する中で「建造物の一つとしうて、整備の在り方を検討していく」と述べた。(北國新聞2008年12月2日付記事より)