石川県は新年度、金沢城公園玉泉院丸跡の整備で、辰巳用水開削の歴史にメスを入れる。1631年の「寛永の大火」で、加賀藩三代藩主前田利常が城下町の防火体制を強化するため開削したとされる用水だが、玉泉院丸で造成した庭園の泉水を確保することが狙いだったとの説もあり、県は8月に「金沢城玉泉院丸跡調査検討委員会」を新設し、庭園と用水の関係を洗い出す。
犀川上流から取水する辰巳用水は、現在は兼六園までだが、藩政期は城内まで水が届けられた。大火を契機に城内に水路を巡らせたものだが、こうした経緯に加賀藩の石垣技術者、穴太方・後藤家6代目の彦三郎が疑問を投げ掛けている。県金沢城調査研究所によると、彦三郎は家伝書で「高石垣等之事」と題して「(用水が)防火のためというのは名目で、城内の水が乏しく、泉水のために開かれたのではないか」と指摘している。
玉泉院丸跡は1961年に旧県体育館が建てられ、これまで本格的な調査は行われていない。県教育委員会が昨年暮れに体育館背後を予備調査したところ、藩政期の土層が確認され、明治以降も改変されていないことが判明した。2月の体育館撤去後の埋蔵文化財調査で、庭園の遺構をどれだけ解明できるかが課題だが、仮に寛永期以前に用水が引かれた痕跡が見つかれば、大火後に開削されたとする辰巳用水の歴史に一石を投じることになる。(北國新聞2008年1月4日付記事より)
カテゴリー: 城郭さんぽ日記
富山城 天守築造目指す
藩政期、富山藩が富山城整備にあたり、天守の築造を目指していたことが明らかになった。富山城址公園の発掘調査を進めている富山市埋蔵文化財センターが2日までに、同公園南東側の一角で、天守を築く基礎となる天守台とみられる盛り土を確認した。天守台の存在を裏付ける発掘資料の発見は初めてで、富山藩が天守整備を念頭に本格的な工事に着手していた事実が浮かび上がった。
富山藩は1661年、幕府から天守築造を許可されているが、数多く残る江戸期の富山城絵図に天守は描かれていないため、富山城には天守は建てられなかったと考えられている。(北國新聞2009年1月3日付記事より)
*記事では現在使われなくなった「天守閣」を使用していますので「天守」と修正しています。
金沢城 いもり堀工事&玉泉院丸の現在
金沢城宮守(いもり)堀の水堀化工事は正月休みですが、作事は普請ほど短期間ではわかりやすい変化はありませんね。雪が降る日も多いので休み明けでもしばらくは工事は進まないかもしれません。
翻って、旧いもり堀沿いの玉泉院丸ですが、体育館解体工事は年末に急ピッチに進められ、あっという間に建物はほとんど撤去されてしまいました。
しかし、郭ひとつが更地になると広いものですね。市街地からの玄関口としてどう整備されるのか楽しみです。
金沢城 河北門復元整備&橋爪門正月飾り
今日は違う角度の写真から復元現場案内を始めましょう。
正門である大手門のある新丸から見上げた現場の様子です。
こちら側は見てのとおり囲いしか見えない状態であったので、しばらく来ていませんでしたが、いつの間にか一の門の石垣に沿う大柱が立てられていました。
石垣を積んでいた二の門とにらみ櫓台をつなぐ部分はほぼ積み終わっていました。2段で積まれているんですね。1段目はほとんど土塁で見えなくなりますので、今の状態は貴重な状態です。
二の門の木工事は、櫓の本体部分である「軸組み」をほぼ終わり、屋根をかけるためにその勾配を構成する「小屋組み」がかなり進んでいる状態でした。
上の写真では鉄骨に隠れて小屋組みは見えにくいですが、下の写真では分かるでしょうか。
正月ということで二の丸御殿への正門である橋爪門には、藩政期の注連飾りが今年も再現されました。「数の子飾り」っていうのですよ。
名古屋城、堀泥さらい種探し
名古屋市は新年度、名古屋城の外堀で、絶滅した水生植物の復活事業を検討している。おそらく1610年の築城以来初となる外堀の底泥調査を行い、種子を探す。2010年の生物多様性条約締約国会議(COP10)の名古屋開催をにらみ、40年前まではふつうにみられた直径2メートルもの葉を広げるオニバスをはじめ、かつての豊かな植物群の復活をめざす。
ため池の自然研究会会長の名古屋市緑区、元高蔵高校校長、浜島繁隆さん(75)によると、広さ8万平方メートルのお堀の水面は60年代まではオニバスはじめ、ヒシ、ガガブタなど多くの浮き葉で覆われていた。地下水が豊かで、濃尾平野の水生植物のほとんどをみることができる場所だった。しかし水質悪化のため、69年に17種類あった水生植物が、82年には13、95年には5と激減、いまではみる影もない。 これに対し、市が99年から工業用水を連日注入するなどしており、汚濁度を示す化学的酸素要求量(COD)は92年の1リットルあたり12ミリグラムから08年夏は7.4ミリグラムまで回復した。これなら水生植物の復活が可能だ。
計画では、お堀の20~40カ所で底の泥を取り、年代も測定しながら種を探す。当面の目標は、水質悪化以前で発芽も十分可能な40~50年前の種の発掘だ。お堀は江戸時代に池の底さらえをした記録がなく、45年空襲で城が焼けた時のすすより下層の泥からは、かなり古い種が採れるかもしれない。 種は発芽させ、水面によみがえらせる。鳥の食害や、堀の白鳥やコイのえさで水質が悪くなるのを防ぐため、ネットを張るなど防御策も検討する。
浜島さんは「同じ種類の植物でもDNAレベルでは異なる。よそから移植するのではなく、もともとここで生きていた植物を種から復活させられれば、意義深い」と語る。 (asahi.com2009年1月2日付記事より)
花押付き秀吉朱印状 三重・亀山市歴史博物館に
羽柴秀吉が1584年、亀山城主の関右兵衛にあてた書状が三重県の亀山市歴史博物館で公開されている。東京大学史料編纂(へんさん)所に写本はあるが、実物の所在は長い間不明だった。同館が京都市の古書店にあるのに気づき、08年7月に189万円で購入した。
通信文は9行したためられている。秀吉は「亀山城に織田信雄軍が攻めてきたが、堅固に踏ん張った」とたたえ、「亀山城が攻撃対象になるとは思わなかった」と告白。文章は祐筆と呼ばれる書記の筆跡とみられるが、花押は秀吉本人だ。秀吉の朱印状は豊臣政権の公文書として数多く残っているが、花押を据えた文書は少ないという。 書状は縦14.6センチ、横38.8センチで軸装され、保存状態は良好。同館に送られてきた古書店のカタログに書状が掲載されているのを昨年秋、館員が気付き、専門家に確認してもらって本物と判定されたため、購入した。
展示は09年4月19日まで。同時に亀山城跡や鈴鹿関跡などから出土した古代、中世、近世の瓦106点を展示し、「モノから歴史を探る」展も開催する。(asahi.com2009年1月2日付記事から)
ディアゴスティーニ 遂に「城」発売!! 安土城をつくる
戦艦大和やフェラーリ、ロボザックなど週間でパーツを組み立てていくムックを販売しているディアゴスティーニから、遂に!というかようやくというか「城」がでます。
その前に、今日その情報を知ったのは、メール広告に出ていた「天体模型 太陽系をつくる」です。太陽系を歯車で動作するというカッコいいインテリアなんですが、総額9万円以上。
そして、他には何かないかな、と探していたところに見つけたのは、「パーツ付きクラフトマガジン 安土城をつくる」です。木製パーツを組み合わせて最終的には50センチ以上の天主が完成します。購入者には、信長や金屏風などのミニチュアフィギュアがもらえるとあって、欲しいのですが・・・
全110号にも及ぶ本作は総額16万円。来年1月27日創刊。悩みます・・・ でも多くの城好きは買うんだろうな。
「天地人へのいざない」展と講演会「直江兼続と最上氏」
今日は天候が崩れていく予報でしたが、朝は昨日に続きよい天候で、帰りもまだ晴れていました。高速道路で戻ってくる途中に雨となりましたので、この時期では天候に恵まれた旅行でした。
今日は朝から新潟県立歴史博物館に行きました。
午前は特別展「天地人へのいざない」と通常展の見学。午後は講演会「直江兼続と最上川」となります。
いよいよ来年4日より大河ドラマ「天地人」が始まりますが、ここ長岡市のほか、上越市、南魚沼、米沢、会津と非常に盛り上がっているようです。特別展は10月に上越市立総合博物館で開催された巡回展で、昨日から歴史博物館で開催されています。入口には大河ドラマの予告が流れていて、否応無く期待感が高まります。
講演会は「天地人リレー講演会」全15回のうちの14回目にあたり、山形大学の伊藤清郎氏による「直江兼続と最上氏」とシンポジウムの予定でしたが、急遽シンポジウムが中止となり、上越市公文書館準備室の福原圭一氏による「越後文書宝翰集にみる会津の景勝と兼続」となりました。
会場は通常の椅子がいっぱいになり、パイプ椅子で対応するほどの満員御礼状態であり、最上氏からみた直江兼続(上杉氏)という視点で当時の状況を講演していただきました。会場の客からも兼続の「愛」の文字の兜の質問がありましたが、話としては自国や農民に対する「仁愛」という説はおもしろいのですが、「愛染明王」または「愛宕権現」を守り神として掲げたというのが真実のようです。
長岡 天地人の旅
澄みきった空のもと、雪をかぶった立山連峰を見ながら長岡へ向けて車を走らせました。
長岡市内に入ったあと、まず郊外の悠久山公園に上ります。由緒のありそうな蒼紫神社の境内には長岡藩主牧野家の墓石が14基立ち並び、城を模した長岡市郷土史料館があります。史料館の最上階からは長岡市内が一望に見えました。
公園をあとにして、天気もよいので近くの幕末北越戦争の激戦地跡を探しました。迷いながらもなんとか八丁沖古戦場と大黒古戦場を見つけました。今は田んぼの中にポツリとある史跡公園として整備されています。長岡は北越戦争の河井継之助と、太平洋戦争の山本五十六、米百俵の小林虎三郎、そして直江兼続と歴史上の有名人が多いですね。
ホテルに着いて街に繰り出したときにはすでに薄暗くなってきていましたが、長岡コンベンションセンターと
ながおか市民センターに寄りました。来年の大河ドラマに向けて、各地のパンフレットやおみやげを扱っていて、行ったときは観光客はいませんでしたが、来年はたくさんの観光客が訪れることでしょう。長岡市内に泊まったときは土日でも19時くらいまでは開いていると思うので、ぜひ寄ってみてください。
来年は新潟で国体も開催されるようで、街は天地人と国体の旗がいっぱい立っていました。
長岡城紀行 蔵王堂城址と長岡城址
明日新潟県立歴史博物館で行われるシンポジウムに参加するため、今日長岡に入りました。
宿泊する長岡駅近くには2つの城跡があります。そのひとつが蔵王堂城址。信濃川に隣接し、現在金峰神社境内になっていますが、そこには内堀の一部や大きく盛り上がった土塁の一部を見ることができました。堀直奇の銅像が建てられたようです。
しかし、この金峰神社藩政期には相当広い境内だった(現在でも広いですが)ようで、鳥居から続く参道は現在の倍近くもあったようです。
続けて長岡城址です。厚生年金会館敷地内にある石碑です。
本丸跡は現在長岡駅となっており、
石碑のある二の丸は厚生年金会館と道路を挟んだ銀行を含めた範囲になるようです。ながおか市民センターには長岡城の模型がありますので、そのあたりがよく分かりますよ。来年放送の大河「天地人」の掲示もたくさんありました。