金沢市文化財保護課と市埋蔵文化財センターは8日までに、同市涌波町などで加賀藩による黒色火薬の製造、貯蔵施設であった「土清水塩硝蔵」を発掘調査し、塩硝を保存していたとみられる土蔵の礎石と、梅鉢紋入りも含む多数の屋根瓦を確認した。史料の乏しい軍事施設の実態に迫る成果で、市は引き続き調査を進め、敷地面積約8万平方メートルとされる塩硝蔵の範囲特定と全容解明を目指す。
塩硝蔵の存在は、幕末から明治初期にかけての建物の配置を記した「土清水製薬所絵図」などの史料で知られていたが、遺構として確認されたのは初めて。発掘は、国史跡指定を目指す辰巳用水の詳細調査の一環として、9月10日から涌波堤公園周辺の2カ所で行われ、うち涌波町の1カ所から土蔵の存在を示す20個の礎石と、土蔵が本瓦葺きであったことを示す大量の赤瓦が見つかった。瓦には加賀藩主前田家の家紋である梅鉢紋が入った軒平瓦も含まれていた。
加賀藩の塩硝は江戸時代、国産最良の品質で生産量も最大とされ、幕末には五箇山から年間5トン余りを買い付けていた。塩硝蔵はもともと金沢城内に設けられていたが、火事が相次いだため、1658年に土清水に移転し、1870年以降に廃止されたらしい。
塩硝を硫黄、木炭とともに粉末化した辰巳用水沿いの工場「三品搗蔵(みしなつきくら)」は今回の調査では確認できなかった。(北國新聞2007年10月9日付記事)
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新聞で講演会のネタばらし? 金沢城辰巳櫓と西本願寺飛雲閣は共通デザイン
宝暦の大火(1759年)で焼失した金沢城・辰巳櫓が、西本願寺の飛雲閣と共通の建築デザインだったことが、京都造形芸術大学の中村利則教授の調べで分かった。
中村教授が着目したのは二層構造だった辰巳櫓の宮守堀側の一層目。石垣を登ってくる敵兵を攻撃するため、二カ所の「出し」と呼ばれる防御拠点が設けられていたことが平面図、古文書などから分かっている。二つの屋根には直線的な合掌型ラインを持つ「千鳥破風」と、曲線的な「唐破風」の二種類がそれぞれ採用されていた。中村教授は「同じ層の同じ面に異なるデザインの破風が並ぶのは例がない」と指摘。現存する建物の中では、飛雲閣しかないという。
中村教授はいずれも寛永年間の流行を反映したものだとし、「こうしたデザインは、建物をより大きく見せる役割を果たす。辰巳櫓が『守る』機能よりも『見せる』ことを重視して築かれた可能性がある」と述べた。中村教授は6日1時半から、金沢市の県文教会館で開かれるシンポジウム「金沢城と伝統技術」に参加し、「建築史からみた金沢の伝統技術」と題して講演する。(北國新聞2007年10月5日付記事)
明日、金沢城大学の公開講座で中村教授が講演することになっているのですが、前日のこの記事は明日の教授の主張を一つ先取りしてバラしているのではないか?と思うのですが、宣伝効果も抜群でしょうね。興味本位な人たちが多くなると、折角の公演中におしゃべりする人がいて非常に迷惑なのだが・・・
金沢城 太鼓塀修復に現代工法
昨年度から「平成の大修理」に入った国重要文化財、金沢城石川門で、左右に延びる太鼓塀を補強する控柱に、一部、現代的な工法や材料が採用される見通しとなった。これまでの発掘調査の成果を受け、控柱は約百年ぶりに江戸中期の形状に復元される方向だが、石川県教育委員会は維持管理に優れるコンクリート製基礎の使用を検討している。県教育委員会は文化財の復元と現代工法の調和を図るモデルケースとしており、文化庁に形状変更を申請する。
復元に当たって、江戸中期の控柱のままでは、木製柱が地面にそのままでは、木製柱が地面にそのまま差し込まれているため根本が腐食しやすく、引き抜きの力に対して弱いという問題点が浮上していた。地震や台風による破損や、耐用年数の短さ、維持管理費の急増が懸念されている。
そこで、県教育委員会は、控柱の根本を石製柱として上部の木製柱と金属製の心棒でつなぎ、地下はコンクリート製基礎を置いて石製柱をしっかり固める復元案を作った。史実とは異なる形状になるが、県教育委員会は「文化財の保存修理は維持管理も考慮しなければ、かえって損傷の原因になる可能性がある」(文化財課)として、文化庁の理解を得ていく考えである。(北國新聞2007年10月3日付記事)
金沢城 宮守堀の南岸確認
金沢城公園の宮守(いもり)堀の段階復元に向け、石川県が金沢市広坂2丁目で実施している発掘調査で21日までに、宮守堀南岸ののり面が確認された、昨年秋に付近2カ所で同様の遺構が見つかっており、南岸のラインが江戸後期の絵図通りと確認できた。今回見つかった部分の勾配は約30-40度であることも分かり、宮守堀全体を復元する際の大きな手掛かりとなる。
発掘調査は金沢市中央消防署広坂出張所跡地で行われた。約50平方メートルの範囲で最大約3メートル掘った結果、1907年に埋められたとみられる堀の南岸部分が確認された。これまで江戸後期の絵図から推測されていた通り、宮守堀の南岸が約300メートルに渡り真っすぐ走っていたことが、今回と昨年の3カ所での発掘結果から裏付けられた。
宮守堀については、これまでの調査の結果、北岸から南岸まで幅約40メートルで、深さ10メートル以上、北岸の勾配は焼く25-30度だったことが分かっている。今回の調査でこれまで不明だった南岸の勾配が判明し、金沢城調査研究所は「宮守堀の全体像に、だいぶ迫ってきた」としている。(北國新聞2007年9月22日付記事)
高岡市 二上山山頂に城郭跡
高岡市の二上山山頂に南北朝時代から戦国時代にかけて城郭が存在した可能性があることが、17日までの高岡市教育委員会の調査で分かった。山頂につながる尾根筋に、山城特有の防御施設の遺構などが見つかった。二上山では山頂より標高の低い場所に守山城が築かれたが、遺構の発見で山頂にも一時期、城が存在したと推定される。守山城は1585年、佐々成政が豊臣秀吉に降伏後、前田利長の居城となった。同市教育委員会は前田家関連史跡として、守山城の変遷を含めて築城の全容解明を進める。
古来、信仰の対象だった二上山の山頂は聖域とされてきた。山頂より140メートル低い支峰「城山」に城の遺構が見つかったことで、守山城は南北朝時代から近世初頭までの約250年間、一貫して城山にあったと考えられてきた。しかし、今回の発見で、ある時期に城が二上山の山頂から支峰に移された可能性が出てきた。(北國新聞2007年9月18日号)
金沢城 三十間長屋の鉛瓦の変色は再生品が原因
調査したのは、「城と庭のボランティアガイド」を務める郷土史家の安井史郎さん。三十間長屋の屋根瓦は灰白色の「鉛瓦」と呼ばれ、木材の上に鉛板を張り付ける構造となっている。現在、屋根の中心付近を境に、くっきりと南側半分が大部分変色している状況にある。
数年間からボランティアガイドを務める安井さんは、観光客から屋根の色の違いについて何度か指摘を受けたことをきっかけに、自身が通う県民大学校大学院の研究テーマに選び、半年前から調査を進めてきた。
三十間長屋は1966年から69年にかけて大規模修復され、その当時に瓦もすべて葺き替えられた。安井さんが金沢城・兼六園管理事務所を通じて施工業者に問い合わせたところ、修復の際に半分は旧来のものと同質に近い成分になるよう検討された新品、もう半分は古い鉛を鋳直した再生品が使われたことが分かった。
安井さんは再生品の成分が変色につながったとみて、鉛材メーカー二社に見解を尋ね、鉛中に含まれる鉄や銅などの不純物の影響で変色したとの結論に至った。(北國新聞2007年9月14日付記事)
先々月撮影した三十間長屋の写真(右側が北向)
金沢城 河北門復元で寄進事業を始める
石川県は来月着工の金沢城河北門の復元事業にあわせ、壁板や平瓦の裏に県民が一口五千円で記名する寄進事業を始める。多くの県民に復元事業への理解と愛着を深めてもらう「県民参加による城づくり推進事業」の中心イベントと位置付け、第二期整備事業計画に基づき河北門に続いて復元する橋爪門でも同様の寄進事業を実施する。
今回の寄進事業の対象は2010年春の完成を目指す河北門の「二の門」の内部に使う壁板210枚と、「一の門」「ニラミ櫓台」の海鼠塀に使用する平瓦350枚。うち壁板は1枚当たり14口に分割し、計約3300口、1650万円を予定する。10日から県公園緑地課で予約を受け付け、壁板は来年5月から、平瓦は来年10月から申込み手続きを開始する。来秋以降に上棟式など工事の節目ごとに寄進者を招いて記名会や工事見学会を開く。(北國新聞2007年9月11日付記事)
石川県土木部公園緑地課 壁板・瓦の寄進について
石川 松波城跡庭園跡を調査
能登町教育委員会は6日、同町松波の県指定史跡松波城跡庭園跡の礎石建物跡の発掘調査で、礎石や柱穴、枯山水の造成用に集められたが使われなかったとみられる扁平な石が残る土坑、土師皿などを確認したと発表した。
新たに見つかった柱穴や礎石から、建物がこれまで考えられていた規模よりも大きいことが分かった。土師皿から推定して、建物が16世紀後半のものである可能性が高いとしている。土坑については、礎石を配置するために掘った穴と同じ面に掘られていることなどから、枯山水と建物がほぼ同時期に造られはじめたのではないかと推測している。
松波城は畠山氏の居城とされ、庭園跡は1962年に見つかり、1980年に発掘調査が行われた。今回は保全活用を目的に礎石建物跡など約70平方メートルを調査した。(北國新聞2007年9月7日付記事)
京都宇治川で「太閤堤」跡見つかる
京都府宇治市の宇治川右岸で、豊臣秀吉が16世紀末、伏見城築城に伴い前田利家らに造らせた「太閤堤」の一部とみられる大規模な護岸跡が見つかり、宇治市歴史資料館が5日発表した。マンション建設に伴い、6月から宇治川の右岸約千三百平方メートルを調査していた。
護岸は江戸時代後期に度重なる洪水で埋没したらしく、これまで存在が分らなかった。護岸の石やくいも約四百年前の姿のままで発見された。表面には宇治川上流の岩が積み上げられ、斜面の下には護岸の崩落を防ぐため直径約20センチの松くい約三百本が打ち込まれていた。斜面や上部の平たんな面には割石が張られていた。(北國新聞2007年9月6日付記事)
一向一揆 佐羅城の場所特定
金沢市の日本城郭史学会会員、高井勝巳さんは、加賀一向一揆と織田信長の軍勢による鳥越城での合戦と同時期に攻防が繰り広げられたとされる佐羅城の場所が、白山市佐良の佐羅早松神社周辺であることを突き止めた。
城は古文書に存在が記されているだけで、その場所は特定されていなかった。佐良の住民への聞き取り調査などでもほとんど手掛かりを得られなかったが、これまでの研究と経験から所在を推定し、現地を歩き回って土塁の跡などを見つけた。
城跡は佐羅早松神社から約700メートル離れた丘陵で確認した。東側には曲輪が二個所あり、堅固な防御機能を果たしていたことをうかがわせるとし、籠城を想定して築いたと推測している。(北國新聞2007年8月30日付記事)