十六世紀末の初期の金沢城内に、後に加賀八家を形成する重臣らの屋敷が並んでいたことが21日、石川県金沢城調査研究所によって初めて確認された。城内の家臣団屋敷は次第に城内に出て城下町金沢の核となっていくことになり、同研究所は「金沢城の発展過程を知るとともに、城下町金沢の形成過程を探る上でも重要な確認だ」としている。
24日に起工する金沢城河北門復元工事へ向けて実施された埋蔵文化財調査の過程で、石川門に向かう河北門の二の門周辺から1600年前後のものとみられる中国の陶磁器や唐津焼、素焼きの皿の破片が数十点見つかった。(北國新聞2007年11月22日付記事)
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名古屋城本丸復元、文化庁が許可 着工へ道筋
名古屋市は19日、市が進めている名古屋城本丸御殿の復元を進めるうえで前提となる「特別史跡の現状変更許可」を文化庁が出したと発表した。復元場所の名古屋城跡が国の特別史跡のために必要な手続きだった。許可されたことで市は、08年度から工事を始めるため、新年度予算案に工事費を計上することを検討する。
本丸御殿は1945年5月に空襲で焼失。市は「文化力を世界に発信し、ものづくりの技と心を伝えるシンボル」として昭和60年代から復元を目指し、昨年度に基本設計を立て、今年度はより詳しい設計をしている。市は特別史跡の現状変更許可を9月に申請。文化庁は今月16日に許可した。
現在残っている、柱の基礎である礎石は、貴重な文化財であることから、市は礎石や現状の地盤面を現場で保存するため、砂や砂利で盛り土をして保護したうえで基礎を造り、御殿を復元する。2010年に玄関の一部を公開し、22年度に完成させる予定。 (asahi.com2007年11月19日21時30分記事)
名古屋城は天守をコンクリート製で復元しており、今回の本丸御殿が史実に忠実なものとするのか、そうでないのか気になるところである。
名古屋城本丸御殿復元事業ホームページ
平成19年度史跡指定答申
文化審議会は16日、新たな史跡指定を渡海文部科学相に答申した。文部科学相は近く答申通り指定などを行う。
今年度史跡指定される城跡は以下の二つ。
・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)
・佐敷城跡(熊本県芦北町)
関連する史跡は一つ。
・彦根藩主井伊家墓所(滋賀県彦根市、滋賀県東近江市、東京都世田谷区)
(北国新聞2007年11月17日付記事)
金沢城 河北門石垣は戸室石で
金沢城三御門の一つである河北門の復元整備では、城内側の「二の門」の石垣を、すべて戸室石で築くことを「金沢城河北門等の復元整備専門委員会」で了承した。
河北門は今月24日に起工式を行い、2010年3月の完成を目指す。今月から復元過程を見学できる常設ステージを取り付け、全体が素屋根で覆われる来年7月以降は素屋根内部に別のステージを設ける。石垣工事や左官工事などの節目ごとに、専門家や職人が説明する工事見学会を10回程度開く。
石垣工事は来年7月までに終え、同11月ごろには上棟式を予定している。門に使用する木材は、6割を県産の能登ヒバや杉とする。(北国新聞2007年11月15日付記事)
金沢城 鯉喉櫓台石垣5メートル積み復元
金沢城公園の宮守(いもり)堀の水堀化に向け、石川県は14日に県庁で開いた「金沢城河北門等の復元整備専門委員会」で、段階整備案を明らかにした。現在の地表から約3メートル掘り下げて、兼六園側の鯉喉櫓(りこうやぐら)台から中央消防署広坂出張所跡地付近までの延長約230メートルに、水面幅15.4メートルの水堀を整備する。現在は地表から高さ1メートル程度のみが突き出ている鯉喉櫓台の石垣も、藩政期の絵図に基づいて約5メートル積み増し、本来の高さまで復元する。(北国新聞2007年11月15日付記事)
安土城もっと広かった
滋賀県教育委員会は29日、織田信長が築いた滋賀県安土町の安土城が、従来考えられていたよりも南側に約120メートル広かった可能性があると発表した。内堀も設けていたようで、「大坂城などのように堀を構えて守りを固めた、近世城郭の先駆けだったのだろう」としている。
滋賀県教育委員会は、城の南端とされていた石垣に沿って、要所への出入り口「虎口」の遺構を発見した。石垣の高さはわずか1.3メートルから2.5メートル。虎口も敵の侵入に対する備えのない簡単な造りだった。付近に見張り小屋などもなく、この石垣が城の内外を隔てていたとは考えにくいと判断した。(北國新聞2007年10月30日付記事)
地元以外の発掘記事が新聞に載るのは珍しいことですが、今週末の3日(土)に安土城で発掘調査現地説明会が予定されています。きっと今回の発見に関する説明会だと思いますのでと楽しみです。
金沢城跡 来年国史跡として申請
石川県の谷本知事は26日、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産暫定リスト入りに向け、来年一月ごろに金沢城跡の史跡指定を文化庁に申請する意向を明らかにした。史跡の範囲は、金沢城公園の都市計画決定区域の公有地とし、来年秋ごろには指定されるとの見通しを示した。また、金沢城内にある江戸時代の土蔵「鶴丸倉庫」について、来年春にも国の重要文化財の指定を受けられると述べた。同日、金沢市の金沢スカイホテルで開かれた金沢経済同友会との意見交換会で、同友会側の質問に答えた。
城下町金沢の文化遺産群のうち、金沢市が調査を担当している前田家墓所は来年度、辰巳用水は再来年度と、国の史跡指定を目指す時期が示されており、県管理の金沢城跡でも目標時期が明示されたことで、世界遺産の暫定リスト入りへの準備が進むことになる。
鶴丸倉庫については、前田育徳会の尊経閣文庫の資料から鶴丸倉庫の平面図が見つかり、江戸後期の嘉永年間に存在していたことが裏付けられたとして、県はこの平面図とともに、文化庁に国の重要文化財への指定を申請する。
金沢城河北門の寄進事業 橋爪門でも
県議会土木企業委員会は25日開かれ、県側は2010年春の完成を目指す金沢城河北門復元整備で初めて取り組む瓦や壁板の寄進事業について、橋爪門や玉泉院丸庭園など今後の第二期復元整備でも活用を検討する方針を示した。
寄進事業は一口五千円を募り、河北門の瓦や壁板に記名してもらうことで、県民に復元事業への理解と愛着を深めてもらう狙い。1650万円が目標で、これまでに、瓦で62口、壁板は30口の予約があり、来年五月以降、正式に申込みを受け付ける。(2007年10月26日付記事)
石川県土木部公園緑地課 壁板・瓦の寄進について
七尾城 豪雨で被害が拡大
能登半島地震で石垣が崩落した国指定史跡・七尾城跡で、15日深夜から16日未明にかけての豪雨のため新たに18ヵ所で土砂崩れなどが起きていたことが、24日までに分かった。9月に文化庁から交付される補助金の額が決まり、七尾市教育委員会は来年夏までの復旧を目指していた矢先の被災で、修復がさらに遅れることは確実と見られる。七尾を代表する名所だけに、関係者は頭を抱えている。
七尾城跡の石垣は3月の地震で、本丸登り口が幅約2メートル、高さ約5メートル、桜馬場が幅約7.8メートル、高さ3.7メートルにわたり崩落した。先の豪雨では本丸跡の土塁が幅約10メートル、高さ15メートルにわたって崩れるなど、18ヵ所で被害が確認された。駐車場近くの入口では土砂が通路を覆い、敷地内では二次災害を防止するため6ヵ所に10メートル四方のビニールシートが張られた。(北國新聞2007年10月25日付記事)
元は金沢城内の十三重塔? 兼六園の六重塔+能美の七重塔
兼六園の瓢池(ひさごいけ)の六重の石塔「海石塔」と、能美市寺井町の奥野八幡神社にある「七重塔」が元は金沢城にあった十三重塔で、加賀藩三代藩主前田利常が小松城に隠居する際に分離された可能性が大きいことが、石塔研究家の石井嘉之助さんの調査で裏付けられた。二つの塔はいずれも加賀地方産出の同じ石材でできており、上下に重ね合わせた笠の比率が数学的にも合致するためである。
二つに分かれた「十三重塔」の上部にあったとみられるのは、兼六園の海石塔。高さ約四メートルで、笠石は六重となっている。一方、「十三重塔」の下部とみられる奥野八幡神社の七重塔は高さ約5メートルで、利常が小松城に移る際に持参したと伝わる。廃藩置県後、旧寺井村有志に払い下げられ、同神社に奉納された。現在は見掛け上は六重となっており、二重目は小松城跡地に埋もれているという説がある。
二基は笠の四隅が上がる意匠が一致。笠に小松の滝ヶ原石、笠と笠をつなぐ軸部に金沢の青戸室石を使う点や、明かりを入れる「火袋」に坪野石を使用した点も同じだった。県内に同様な石を組み合わせた塔はないという。(北國新聞2007年10月12日付記事)