県教育委員会が今年度に改組した「金沢城郭研究所」は、全国の新進気鋭の研究者5氏を客員研究員に委嘱し、九州と金沢の城郭石垣の比較研究に乗り出した。諸大名が石垣技術者をどのように召し抱えていたかを福岡藩、熊本藩、久留米藩などの資料から洗い出し、世界遺産「城下町金沢」再提案でも掲げた、金沢の石工技術の普遍的価値や希少性を比較研究で明確にする。新年度以降は、尾張藩、紀州藩、津藩、萩藩などにも調査範囲を広める計画だ。
客員研究員の共通テーマは、天下普請での石垣城郭技術者の編成・技術内容の比較や、各大名家独自の石垣技術の考察となる。
客員研究員は次の各氏。
白峰旬氏(別府大准教授)
長屋隆幸氏(愛知県立大非常勤講師)
宮里学氏(山梨県教育庁学術文化財課副主査文化財主事)
楠寛輝氏(松山市教育委員会文化財課主事)
市川浩文氏(佐賀県立名護屋城博物館学芸課調査研究担当主査)
研究所では今年度、前身の「金沢城研究調査室」で培ったノウハウを生かし、大坂城と名古屋城で石垣遺構の分類編年に関する調査も始めた。今後は調査対象の城郭を全国に広げ、金沢城や城下に蓄積された匠の技を世界的視野に立って解明していく。(北國新聞2008年1月16日付記事)
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高岡城 石の切り出し跡調査
高岡市教育委員会は8日までに、雨晴海岸の景勝地として知られる義経岩で、高岡城の築城に使われたとみられる石の切り出し跡の調査に乗り出した。同市は新年度以降、高岡城跡の本格調査を実施する方針で、富山考古学会と二上山総合調査研究会と協力し、義経岩の歴史遺産としての価値に光を当てる考えだ。
義経岩は、海側の岩盤と背後の石積みで囲んだ土盛りからなるが、崩落の危険性が指摘されていた。県は今年度から2ヵ年間で修復工事を実施する予定だが、市教育委員会の調査を受けて切り出し跡を保全する形での工事を検討している。義経岩の石切り跡については、富山考古学会などが存在を確認していたが、本格的な調査は初めてとなる。これまでに、石を切り出した「矢穴」を新たに2ヵ所確認したほか、周辺にある石切り跡の実測図の作成も進めている。(北國新聞2008年1月9日付記事)
奥医王に山城遺構
石川考古学研究会幹事の宮元哲郎さんは3日までに、医王山主峰である奥医王の山頂付近で、山城跡とみられる防御施設の遺構を確認した。金沢市埋蔵文化財センターによると、医王山一帯では15世紀、当時加賀守護だった冨樫政親との戦いに敗れて井波に逃れた一向宗と、政親から一向宗討伐の要請を受けた天台宗惣海寺勢との戦いがあったとされ、山城跡は当時の戦いで使われた可能性があるという。
遺構は石川、富山両県にまたがるように位置する。同センターによると、奥医王の石川県側で山城跡とみられる遺構が確認されたのは初めてで、医王山を舞台に繰り広げられた戦闘の様相を知る貴重な手がかりになるとしている。
宮本さんが確認したのは、敵の侵入を防ぐ「堀切」と呼ばれる溝で、奥医王山頂の北東側に計四カ所あることが分かった。このうち一カ所は1990年からの旧福光町による調査で確認されていた。宮本さんが荒田に三カ所を確認したことで、四つの堀切が山頂近くの平坦面を囲むように存在し、山城を構成していた可能性があることが分かった。(北國新聞2008年1月4日付記事)
金沢市が歴史都市へ横断組織
金沢市は来年度、歴史都市・金沢の実現に向けて庁内横断組織を設置する。国土交通省が新設する 歴史的環境形成総合支援事業の第一号認定をにらみ、歴史資産そのものの保全、整備に加え、周辺の道路整備、景観向上といった多面的な施策を打ち出す。11月には歴史探訪の日(仮称)を荒田に設定し、市民がふるさとの豊かな歴史、文化に触れる機会も提供するなど、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産登録に向けた環境整備を強力に推し進める。
横断組織は「歴史都市推進チーム」で、都市政策、産業、市民、都市整備の四局十六課で構成される。歴史都市の実現に向けた戦略を推進する実働組織と位置付け、課長補佐級の職員をメンバーとする方向で調整する。市は世界遺産登録に向け、構成資産周辺の環境も重要な要素になるとみており、歴史都市実現の取り組みを通じて、「城下町金沢」の世界遺産登録に向けた弾みをつけたい考えである。
一方、歴史探訪の日は11月1日からの国の文化財保護強調週間に合わせて設定する。10-11月を「かなざわ歴史探訪月間」とし、普段は内部を見ることができない文化財の一般公開や歴史的用水、塩硝蔵、三寺院群をめぐる探訪ツアー、歴史文化講座、惣構学習塾といったイベントを集中的に展開する。事業開催では「石川県に世界遺産を」推進会議など関係団体に協力を求める。ふるさとの歴史遺産に対する市民の意識を高め、世界遺産登録に向けた機運を盛り上げる。(北國新聞2007年12月30日付記事より)
金沢城復元 お墨付き
金沢城公園復元整備など国土交通省の補助対象に「城跡」が加わる。従来は公園施設整備として進められた金沢城の復元工事が、今後は城郭施設として国の「お墨付き」を得る格好となり、城下町金沢の風格に一層厚みを増すことにつながる。
現行の都市公園整備事業補助制度は対象がベンチなどの休憩施設や運動施設、教養活動施設に限られ、現在進行中の河北門整備は「教養施設」として、国の補助を受けている。対象への「城跡」の追加で櫓など歴史的施設の復元も補助の対象となり、河北門を皮切りにスタートした金沢城の第二期復元整備事業で、今後予定される橋爪門や宮守堀は「城郭施設」として国の支援を受けることになるとみられる。
国土交通省が創設する歴史的まちづくりの総合支援制度の一環で、城跡のほか、古墳の復元整備も補助対象となる。(北國新聞2007年12月23日付記事)
西山古墳群 信長軍の山城跡か
石川県能美市高座町の西山古墳群でこれまで、古墳と推定されていた南尾根の四、五号墳が戦国時代末期(十六世紀後半)とみられる山城の土塁の一部だったことが15日までの能美市教育委員会の詳細分布調査で分かった。
市教育委員会によると、山城は織田信長軍が1577(天正五)年に手取川で上杉謙信と対峙した際か、1575(天正三)年以降に和田山城の一向一揆を攻めるために築いた陣城跡の可能性もあるという。
西山古墳群は標高約36メートルの丘陵上に、15基以上の古墳が分布すると推定される。1964年から1967年にかけて行われた緊急調査で、弥生墳丘墓など計7基で構成される能美古墳群の一部として確認されたが、その後は本格的に調査されていなかった。そのため市教育委員会は、今年度から三年計画で西山古墳群の詳細分布調査に乗り出し、初年度は古墳が良好に残っていると推定された南屋根を調査した。
この結果、南屋根から古墳は見つからず、戦国時代の曲輪や土塁、切岸の防御機能を備えた山城跡とみられる遺構が見つかった。市教育委員会によると、全長約20メートル、高さ約1.5メートルの土塁の盛土がこれまで古墳のように見えていたらしい。(北國新聞2007年12月16日付記事)
金沢城鶴丸倉庫 武具保管が用途
金沢城公園内に現存する土蔵「鶴丸倉庫」が現在の規模となったのは江戸後期の1848(嘉永元)年で、倉庫の主な用途は武具保管だったことが、石川県金沢城調査研究所の調査で分かった。改築工事が完成した嘉永元年はペリー来航の五年前で、長い海岸線を持つ加賀藩でも異国船への警戒を強めた時期とみられ、研究所は「対外的緊張が倉庫改築と関連する可能性が大きい」とみている。鶴丸倉庫での新たな所見は、県が目指す国重要文化財指定に弾みとなりそうだ。
鶴丸倉庫は金沢城の絵図から、江戸後期の1845(弘化二)年から50(嘉永三)年の間に現行の大きさに改築されたことが判明していたが、今年度の研究所の調査で、金沢市玉川図書館近世史料館所蔵の加越能文庫から、工期や大工、用途を特定できる文献が確認できた。文献は、藩に召し抱えられていた大工の山本勝左衛門が1870(明治三)年に同家の由来などを記した「先祖由緒並一類附帳」。鶴丸倉庫の改築を担当したことや、弘化四年二月に着工、翌年の嘉永元年正月(一月)に落成したことが記録されている。(北國新聞2007年12月15日付記事)
信長の茶室跡を発見か
岐阜市教育委員会は10日、岐阜城のある金華山のふもとの岐阜公園で進めている織田信長の居館発掘調査で、信長が使った茶室か土蔵の可能性がある遺構を発見したと発表した。
遺構は、居館本体があったとみられる場所の裏側の平坦地で発掘。火災で焼けて炭化したとみられる土が約60センチ堆積し、その中から多量の壁土が見つかった。礎石もあったことから、建物の存在が裏付けられ、茶室か土蔵の跡とみられる。岐阜市教育委員会は、1600年の関ヶ原の合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際、焼けた可能性があるとみている。(北國新聞2007年12月11日付記事)
名護屋城 秀吉の本丸御殿全容確認
豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592-98年)の拠点にした名護屋城跡の発掘調査で、本丸御殿に計12棟の建物群があったことが確認され、佐賀県立名護屋城博物館が30日、発表した。単なる出城ではなく、本格的な規模や格式を備えた城の全容が初めて浮かび上がった。
同博物館は1996年の調査で、諸大名が秀吉に謁見した「御対面所」と推測される建物など2棟の跡を確認。2004年に再開した今回調査で、秀吉の私的な「書院」と推測される建物、水回りに関連する施設など10棟を新たに確認した。(北國新聞2007年12月1日付記事)
金沢城 来年度塩硝蔵を追加調査
金沢市は来年度、藩政期に黒色火薬を製造、貯蔵していた「土清水塩硝蔵」の追加調査を実施する。全国的に見ても珍しい歴史遺産であり、価値付けにつなげる。
今年度の発掘調査では、涌波町の休耕果樹園内で硝石土蔵と堀の痕跡が確認された。これらの遺構は幕末から明治初期にかけての「土清水製薬所絵図」に記されている建物の配置と合致していた。来年度は同じ休耕果樹園内の複数の地点で発掘調査を実施する方向である。絵図に記されたもう一つの土蔵の存在を確認するとともに、堀の規模などに関するデータをさらに収集する。
今年度は涌波一丁目の涌波堤公園でも調査を実施し、塩硝を硫黄、木炭とともに粉末化する施設である「三品搗蔵」を確認しようとしたが、遺構は発見できなかった。市は、絵図に記されている辰巳用水沿いの「搗蔵」などの存在を裏付ける調査実施も検討する。(北國新聞2007年11月27日付記事)