金沢城跡 国史跡に決定

文部科学省は17日付の官報で、金沢城跡を文化審議会の答申通り、国史跡に指定すると告示した。告示をもって史跡指定が正式に決まった。国史跡指定の範囲は金沢城公園内の国・県・市有地を合わせた約27.5ヘクタールとなる。(北國新聞2008年6月18日付記事)

金沢城跡国史跡に

本日は金沢城関連で2件。
文化審議会は16日、金沢城跡を国史跡に指定するよう、渡海文部科学省に答申した。答申通り近く指定、登録される。指定範囲は金沢城公園内の国・県・市有地を合わせた約27.5ヘクタールで、ビルが建つ西側の私有地、北陸電力の変電施設がある北側の敷地は含まれない。(北國新聞2008年5月17日付記事)
財団法人北國総合研究所の「金沢城辰巳櫓復元調査検討委員会」は16日、金沢市の北國新聞会館で会合を開き、今年度から製作に乗り出す辰巳櫓の立体模型について、1759(宝暦9)年の大火で焼失する前のタイプで取り組みことを決めた。製作期間は2年間で、辰巳櫓の復元に向けて気運を盛り上げていく。今年度は50分の1の縮尺で模型を試作し、来年度に20分の1の大きさで立体模型を製作する。(北國新聞2008年5月17日付記事)

金沢城辰巳櫓 家老、財政困窮で再建断念で殿を説得する

1759年(宝暦9年)の大火で焼失した金沢城本丸の辰巳櫓の「天保の再建」工事が突然中止されたのは、加賀八家の一人、奥村栄実(おくむらてるざね)の進言が影響した可能性の高いことが、石川県金沢城調査研究所の調査で分かった。栄実は加賀藩の再建を担った十三代藩主前田斉泰のブレーン。栄実の日記などから財政難を理由に「殿の悲願」を断念させたと推察され、藩内で繰り広げられたドラマが見えてきた。(北國新聞2008年5月5日付記事)

金沢城 周辺の埋蔵文化財調査決まる

「旧県庁舎南ブロックの保存改修に向け、県は7日から、埋蔵文化財調査に着手する。調査期間は8月末までで、今秋には県庁跡地整備で初めてとなる建物の工事が始まる。調査は南ブロック北側約900平方メートルの増築部分が対象となる。金沢城調査研究所によると、一帯はかつて堂形と呼ばれ、絵図や文献では江戸前期には加賀藩の米蔵などがあったとされており、遺構の有無などを調べる。」
旧石川県庁
「最高裁は2日までに、金沢地裁の庁舎を金沢市丸の内の現在地で立て替える方法を固めた。最高裁によると、新庁舎の建設は五年計画で進められ、2010年度に着工、12年度の完成を目指す。今年度は敷地の埋蔵文化財調査と基本・実施設計を行う。」(北國新聞2008年5月3日付記事)
金沢地裁
金沢城の南と北で同時に埋蔵文化財調査が行われることになりました。旧県庁のほうは堂形の遺構に期待しますが、金沢地裁のほうは御山坊舎の頃の門前町の遺構など見つかれば大発見ですね。

金沢城玉泉院丸 石垣修復3度やり直し

金沢城玉泉院丸跡南西石垣の修復工事で、作業完了までに三度にわたって石を積み直していたことが30日までに分かった。工事は大阪の石材業者の指導で行われ、作業途中で元の姿に復元できない恐れが出たため、再三やり直しとなった。藩政期の石垣築造技術の高さを示した形で、工事を発注した県公園緑地課は「積み直しは想定内」とする一方、関係者からは「県内にも優れた技術を持つ石工がおり、初めから任せれば積み直さずに済んだかもしれない」との声が上がっている。
作業は大阪の石材業社の指導を受け、金沢市内の石材業社の職人三人が取り組んだ。大阪の業者は大阪城や姫路城、熊本城など全国の有名城郭で石垣の築造・修復に携わった実績があるといい、金沢の現場を五、六回訪れ、石積みは初めてとなる職人に助言した。
最初の積み直しは石を三段まで積んだ段階で行われた。現場を訪れた大阪の石材業社や学者らでつくる石垣修復指導委員会が石垣の角度などを見て、解体前と同じ姿にならないと判断、最下段の一列を残してやり直すことになった。
二度目は五段前後まで積み上げた昨年12月下旬、三度目は七段程度まで復元した1月上旬にいずれも最初と同じ理由で積み直しとなった。三度目では、石垣積みに長い経験を持つ県内の石工に助言を求め、修築工事は3月上旬に完了した。
県内の石材業社からは「助言を求められた、県内一の腕前の石工が初めから手掛ければ、三度も積み直さずに済んだのではないか」との声が聞かれる。県公園緑地課は、修築工事に従事した職人は城郭の石垣工事が初めてであり、石を加工しないなどの制約のある中で工期内に完了したことを挙げ、「積み直しは想定の範囲内。工事はむしろ順調だった」としている。(北國新聞2008年3月31日付記事より)

朝倉氏遺跡 刀装具鋳型が出土

福祉県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は13日、国の特別史跡に指定されている同遺跡から戦国時代の、刀を装飾する目貫(めぬき)など「刀装具」の鋳型計37点が出土したと発表した。
資料館によると、刀装具の鋳型が大量に発見されるのは珍しいといい、発掘した区画が武家屋敷に相当する規模で、朝倉氏の身内の屋敷が集まっていたとされる場所だったことなどから、朝倉氏直属の身分の高い、金工師集団が存在した可能性が高いとしている。(北國新聞2008年3月14日付記事)
一乗谷朝倉氏遺跡資料館 報道発表について
※一定期間を過ぎた場合はリンク先がない可能性があります。

金沢城 鯉喉櫓台に見学場所

金沢城河北門等の復元整備専門委員会は21日、石川県庁で開かれ、宮守堀の水堀化で県側は、石垣復元後の鯉喉櫓(りこうやぐら)台を見学スペースとして開放する設計案を示した。安全柵で囲い、段階復元する宮守堀などについての解説板を設ける。
辰巳用水を取り入れる宮守堀は兼六園からの流下水の60%を取水し、自然流下で近江町用水に排水することで、堀水を二日間で入れ替える。
昨年11月に起工した河北門復元では、発掘調査の結果などを受け、ニラミ櫓台の東西南北の石垣の形式を決めた。北面は現状の「割石積」を一部積み直した上部に「粗加工石積」を復元する。二の門では三月上旬から石垣を積み始め、七月に完了する予定とした。
県は年度内に宮守堀の実施設計を仕上げ、新年度から工事に着手、河北門の復元と併せ2010年春の完成を目指す。(北國新聞2008年2月22日付記事より)

能登畠山氏入封600年記念事業

能登畠山氏が能登一国の守護となって600年の節目を飾る記念事業の第1回実行委員会は19日、七尾市役所で開かれ、同氏にちなんだ催しの概要が決まった。シンポジウムや七尾城検定、慰霊法要などが行われ、七尾城の魅力と室町期に花開いた「畠山文化」を発信する。同事業は今年9、10月を中心に約20の催しが実施される。(北國新聞2008年2月20日付記事)

高岡城 石垣沿いに散策路

高岡市は新年度、高岡古城公園(高岡城跡)で、藩政期から残る石垣を間近に見られる散策路を整備する。城跡の本格的な発掘調査に向けた基本計画を策定するほか、新しい整備計画策定の前段となる活用方針の検討も行う。
高岡城跡の二の丸から本丸に続く土橋にある石垣は、藩政時代から残る数少ない遺構となっている。ただ、石垣の下は堀になっているため、見学しにくいのが実情だった。整備にあたっては城跡の構造に影響を及ぼさないよう配慮するほか、朝陽橋の欄干の改修や樹木の剪定も行う。
発掘調査は国指定史跡を目指したもので、2009年度にも着手する。新年度は基礎資料調査と発掘範囲の検討を行う予定である。(北國新聞2008年2月19日付記事より)
高岡城
写真は3年前のものであるが、最近もあまり変わっていなかった。冬は草が枯れてもう少しよく石垣が見えるであろうが、石垣の上がちょうど射水神社への参道となっており、下は水堀であり、今までの注目度は決して高くない状態であった。整備されるであれば、石垣付近だけではなく、水堀の清掃や近くの公共施設の撤去(路上駐車が多すぎる)などもお願いしたい。

金沢城 惣構堀復元工事ずれ込み

金沢市が同市尾張町二丁目で進める東内惣構堀の復元整備を請け負っていた業者が事業を停止し、完成が大幅にずれ込む見通しとなった。市は二月に工事を発注し直す方針であり、当初に予定していた今年度末の完成は困難になった。
市によると、工事は山村組(同市)が単独で請け負っていた。しかし、同社は昨年11月に事業を停止し、工事を継続できなくなった。現在も工事がストップしたままになっており、市は二月上旬に入札を実施し、同下旬の発注を目指す。
今回の復元整備では、橋場交差点と枯木橋に近い約160平方メートルで江戸後期の石垣を保全、修復する。ベンチなどを配した見学所を設け、市民が歴史に触れる空間とする計画としており、現在の工事進捗率は二割程度という。(北國新聞2008年1月18日付記事)
同地に訪れたのは昨年11月中旬でした。一人で作業していましたが、その月以降作業が進んでいないものとは思っていませんでした。建設不況がこんな歴史的復元工事にまで影響を及ぼす事態になっているのですね。
金沢城 東内惣構堀復元現場
復元イメージ
金沢城 東内惣構堀復元現場
昨年11月の見学所現場
金沢城 東内惣構堀復元現場
昨年11月の石垣整備現場