前田利家・佐々成政・不破光治 3人で連帯統治

織田信長から府中(現在の越前市)周辺十万石を分け与えられた前田利家、佐々成政、不破光治の三人が、連帯して統治にあたっていたことが18日までに、加賀藩の研究会「加賀藩・歴史文化護持協力会」の調査で分かった。大阪市内の不破家から、年貢を取り立てる知行地を家臣に与える三人連名の書状の写しが見つかった。政治的決済は三人で行っていたことがうかがえ、謎とされてきた「府中三人衆」の関係解明へ一歩近づいた。
同協力会は昨年一月、加賀藩を支えた重臣の子孫をはじめ、個人や団体約百会員で発足。初年度事業として、詳細が判明していない利家の府中時代を解明するため、大阪市の不破家13代当主、不破一氏宅と、金沢市昌永町の不破家菩提寺、廣誓寺に保管されていた不破家文書の解明を進めてきた。現在まで373点を整理し、近く解説文と目録をまとめた冊子を作成する。今後も高岡市内にある不破家の文書解読を進める方針だ。(北國新聞2009年4月19日付記事より)

富山城跡発掘調査で水路発見

富山市埋蔵文化財センターは19日、同市の富山城址公園の発掘調査で、旧富山県庁付近に造られたと推測される石組水路が見つかったと発表した。旧県庁は1900年に建設され、前年に焼失した本丸御殿の跡地に造られたが、石組水路の存在は今回の調査まで知られていなかった。
水路は幅約70センチ、深さ約40センチで両側に石が積まれ、南側は丸石を三段程度、ほぼ垂直に積み上げているのに対し、北側は割った石の平面部分を表にして斜めに積まれていた。同センターは両岸で異なった形態の施設があった可能性を指摘している。
調査では、焼失した本丸御殿のがれきを埋めたとみられる穴も見つかった。中から変色した土壁や瓦、くぎなどが出土し、火災の激しさを物語っている。(北國新聞2009年3月20日付記事より)

七尾城 石垣「台帳」作りへ 規模や構造細かく記録へ

七尾市教育委員会は新年度、日本五大山城に数えられる七尾城の全容解明に乗り出す。城の構造に関する絵図や古文書がなく、険しい山地に囲まれる同城には、中世の石垣や土塁などこれまで確認されていなかった構造物が現存する可能性が大きいという。新年度には、国史跡である本丸周辺の9.8ヘクタールに残る石垣の「台帳」を作り、城の全体像を把握する。
七尾城跡は1934年に国史跡に指定された。しかし本格的な測量調査が行われたのは、能登半島地震で崩壊した石垣の修復の参考とするため、市教育委員会が2007、08年度に行ったのが最初。その際、がけ地や樹木で覆われた山林に未確認の石垣や土塁が数多く残ることが判明したことから、新年度に大規模調査を実施することになった。
新年度の調査では、市教委職員が国史跡指定範囲内に加え、周囲200ヘクタールとも言われる七尾城全域を踏査し、目視で確認。その上で、石垣などを覆っている草木や土などを取り除き、その大きさや角度、構造などを細かく記録する。土中に構造物が埋まっていることが判明した場合には、レーザー測量機を用いることも検討する。(北國新聞2009年3月19日付記事より)

七尾市 七尾城跡取得へ協議

七尾市は新年度、国史跡「七尾城跡」の取得に向け、国、県との協議を始める。城跡はすべて私有地のため、これまで本格的な発掘調査が行われていないものの、中世の能登畠山氏が拠点とし、往時の城郭や石垣など貴重な遺構が多く残る。取得後は石垣、建造物の調査を行う方針で、将来の一部復元も視野に、全容解明を進めていく考えである。
七尾城跡は、標高約300メートルの本丸跡を中心に、総石垣造りの郭群や石垣、土塁や出城跡などが東西800メートル、南北2.5キロメートルの間の約200ヘクタールの山地に残っており、このうち9.8ヘクタールを1934(昭和9)年に国が史跡指定した。
市教育委員会によると、七尾城跡は廃藩置県後に政府から民間に払い下げられ、現在は約3分の2を地元地権者1人が所有、残りは32人が共有している。私有地のため、発掘など所有者の負担が生じる大規模な調査はほとんど行なわれていない。
市は、七尾城跡取得のため国に交付金を要請する方針で「取得できれば、中世山城の研究がさらに進むことが期待できる」としている。(北國新聞2009年3月11日付記事より)

七尾城跡修復委員会 石垣メーンにPRを

七尾市の第四回史跡七尾城跡石垣修復委員会は3日、同市役所で開かれた。委員である歴史、考古学専門家が二年前の能登半島地震で損壊した石垣の修復状況を現地視察し、「七尾城の特徴は石垣。これをメーンにきちんと調査し、もっとPRしていくべき」などとアドバイスした。
国史跡の七尾城跡は、能登半島地震で本丸登り口と桜馬場最下段の二カ所の石垣が一部崩壊した。市は昨年四月に金沢学院大の橋本澄夫名誉教授や東四柳史明教授ら四氏を委員に迎えて同委員会を発足し、往時の工法を採り入れて昨年九月に修復が完成した。この日は委員が修復された石垣を見て回った後、市役所で修復工事や発掘調査などについて協議した、委員からは「埋もれている石垣もきちんと調査を」「市役所に七尾城調査室をつくって継続調査をしていくべき」などの意見が上がった。(北國新聞2009年3月4日付記事より)

金沢城下町 「惣構堀」を「惣構」に

金沢市の公文書などに記されている「惣構堀」の表現が、「惣構」に正されることになった。二十五日の同市教育委員会議では、「金沢市主計町伝統的建造物群保存地区(伝建地区)保存計画」の変更が了承された。金沢城を取り囲むように築かれた内外二重の惣構は広い堀と高い土居で敵の侵入を防ぐ構造となっており、「惣構堀」は一部分を示しているに過ぎず、市は市内各所に設置されている標柱や案内板の修正も検討する。
市は新年度に主計町伝建地区の緑水苑を整備し、西内惣構を復元するとともに、地区の防災拠点としての機能を高める。これに合わせて保全計画の内容を見直すことになり、地区の沿革を記したくだりの二カ所で見られる「西内惣構堀」の表現を「西内惣構」に変更する。地区の現況に関する部分に「古い絵図等に見られる東西の内惣構堀は暗渠化され」とあるが、この場合の「惣構堀」はかつての惣構の堀の部分を指したものであり、「惣構堀」のままとする。
市などによると、惣構の遺構が比較的良好な状態で残っている市役所裏の西外惣構では、江戸初期の寛文年間に堀の幅が約12メートルに及んだとされる。土居は高さが少なくとも5メートル以上はあったと推定され、堀と土居を組み合わせて強固な守りを築いたことが伺われる。しかし、戦のない平和な時代が続き、惣構の堀は狭められ、土居も削られた。明治に入って土居の多くが消滅する一方、堀は用水などに姿を変えて残ったため、一般的に「惣構堀」と呼ばれることになったと言われる。
「惣構堀」の呼称は「用水のまち金沢」を象徴する側面があるが、土居の存在が薄れ、惣構の威容が正しく伝わらない可能性がある。市が昨年九月にまとめた惣構発掘調査の報告書では「惣構堀」という呼び方について「堀を指す場合は良いが、土居跡も含む範囲を指すことは混乱を招くので、総称としては『惣構』が妥当」と指摘。昨年12月には内外の惣構が「金沢城惣構跡」の名称で市史跡に指定された。(北國新聞2009年2月26日付記事より)

金沢城 玉泉院丸を暫定整備

石川県が計画する金沢城公園玉泉院丸跡の整備で、2014(平成26)年度末の北陸新幹線金沢開業に合わせた段階的な整備が行われる見通しとなった。従来は14年度までに整備計画を策定する方針だったが、埋蔵文化財調査を前倒しして、暫定的な広場整備などを検討する。20日に県庁で開かれた新年度当初予算案の会見で、谷本正憲知事が意向を示した。
県は、水堀化を視野に暫定緑地を造成した宮守堀の整備手法をモデルとし、玉泉院丸跡でも約2ヘクタールの範囲でも埋蔵文化財調査と並行して、広場などの整備を検討する。併せて、庭園や石垣の造形美に焦点を当てた専門家による「調査検討委員会」を8月にも設置し、庭園の価値を総合的に検証する。(北國新聞2009年2月21日付記事より)

埋文発掘調査が始まる 富山市大手町の大手モール

富山市埋蔵文化財センターは6日、同市大手町の大手モールで埋蔵文化財の発掘調査を始めた。4、5日に行われた事前調査では戦国時代から江戸時代のものとみられる素焼きの皿が10点近く発見されており、作業員は慎重に泥の堆積状況や溝の跡を確認した。
大手通りで、埋蔵文化財の本格的な調査が実施されるのは初めて。調査地点は富山新聞社前の市道で、富山城跡の一部。二の丸跡と三の丸跡の間に位置し、周辺には家老屋敷や内堀が含まれる。
発掘は路面電車の環状線化事業で軌道が新設される部分の内、長さ46.8メートル、幅4メートル、深さ2メートルで進められる。市埋蔵文化財センターでは家老屋敷で使われた陶磁器や石垣の一部が見つか
る可能性があるとみている。調査期間は28日までを予定している。(富山新聞2009年02月07日付記事より)

高岡古城公園、発掘調査は2010年度以降 市、国史跡指定へ見通し

高岡市古城公園保全・活用方針策定委員会は30日、同市役所で開かれ、市側は高岡古城公園(高岡城跡)の国史跡指定に向けた発掘調査は2010(平成22)年度以降になるとの見通しを示した。
市教委によると、08年度から2カ年で土塁や堀、石垣の測量調査や文献確認を実施。新年度は築城時のものとされる石垣の概要調査を行うとした。
高岡古城公園を保全活用策ついて、歴史まちづくり法の指定を念頭に進めるべきとの意見が出された。市側は指定の前提となる歴史的風致維持向上計画の策定に向けて文化財総合把握事業を3カ年計画で進めているとした。園内の緑の管理方針を考えるべきとの意見も出された。(富山新聞2009年1月31日付記事より)

「小京都」とお別れ 金沢市、全国会議に脱会届

全国の「小京都」を束ねる全国京都会議から、金沢市が今年度いっぱいで脱会することになった。そもそも武家文化を受け継ぐ城下町である金沢は公家文化の京都とは違うだけに、同会議への加盟は不自然だとの指摘が多かった。金沢など国の「歴史都市」に認定された都市による協議会設置の動きもあり、金沢市は「小京都」と袂を分かち、固有の歴史資産を生かした観光戦略を一層推し進める。
全国京都会議は1985年に発足し、金沢は88年に入会した。現在は金沢、京都両市を含めて全国50市町が加盟しており、事務局がある京都市観光協会のホームページでは「小京都MAP」として各市町の観光名所などが紹介されている。(2008年1月22日付記事より)