年度末から年度初めは県や市から事業計画が発表されるので、城郭復元に関しても次々と発表されます。
県は、金沢城宮守(いもり)堀の段階的復元で、今年度内にも堀の遺構を先行調査することを決定した。金沢市の中央消防署広坂出張所移転跡地で予定する埋蔵文化財調査に先立ち、かつての堀の全体像を把握し、復元の設計、工事前倒しにつなげる目的のようだ。
宮守堀は金沢城の南側、本丸下の内堀である。現在金沢城は、北側の大手堀の一部が水堀として残るだけで、東側の百間堀、白鳥堀は道路や歩道となっている。もともと県営テニスコートだった場所をここ数年、県埋蔵文化財センターの発掘調査が行われたが、櫓台跡や堀の深さなどが判明している。ただ、堀跡も半分ほどしか調査できず、残りは、旧県庁跡地と間の道路の下に埋もれているものと推定された。前出の広坂出張所は道路を挟んだ向側に位置するが、場所的に堀の端が出てくるか微妙かもしれない。
半分だけでも堀を復元する計画もあるようだが、水堀の予定もあるため、辰巳用水などを利用して水がよどまないような工夫を願っている。
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金沢野田山 前田家墓所 初の発掘調査へ
加賀藩歴代藩主の墓がある石川県金沢市野田山の前田家墓所(私有地)で18年度年度、金沢市が国史跡指定に向けて初の発掘調査に乗り出す。
これに前田家18代当主前田利祐氏が理解を示し、墓所の全容解明が前進することになった。文化庁の調査官が、高岡にある2代藩主利長墓所との「一体的な史跡指定」の言及もあり、県境を越えた史跡になる可能性もでてきている。
末森合戦 坪井山砦実は堅固だった
「1584年(天正12年)、前田利家と佐々成政が戦った末森合戦の際、佐々軍が末森城攻めの本陣とした坪井山砦(宝達志水町坪山)は本格的な防御工事が施された堅固な構えだったことが22日、同町末森城等城館跡調査委員会の調査で分かった。
昨年8月から行なった初の発掘調査で、地面をV字状に掘った防御力の高い「薬研堀」(やげんぼり)の遺構が同日までに確認された。」(北國新聞より)
坪井山と末森城は約5キロの距離にあり、互いに相手を見渡せる関係にある。NHK大河ドラマ「利家とまつ」放映に際し、末森城跡はきれいに整備されたが、坪井山はスポットが当たらなかった。これを機会に整備されることを望んでいる。
金沢城整備計画 河北門09年度までに復元
石川県では先日県知事選挙で現職の谷本知事の四選が果たされましたが、早速金沢城の整備計画に関して意向が示されました。
現任期中の09年度までに実質的な金沢城の表門である河北門を復元するようです。河北門は表門であるところから金沢城でも最大規模の門です。現在の観光の入口は兼六園につながる石川門であり、堀として唯一残る大手堀側の河北門は人もまばらなことが多い。ただし、大手堀との間には三ノ丸も存在しているため、観光客の流れをどれだけ変えることができるかは未知数です。
新幹線開業を睨み、次々と復元されることは喜ばしいことではあるが、財源も厳しいところであり、他県の例にあるように市民募金してもよいのでは。というより城主制度作りませんか?
富山城唯一の遺構里帰り
富山市教育委員会は来夏にも、現存する唯一の富山城の遺構とされる「赤祖父家表門」を、富山城址公園に移築する。
赤祖父家表門は、富山藩十代藩主前田利保が隠居後に過ごした富山城内の「千歳御殿」の正門で、御殿と本丸をつないでいた。明治初期の払い下げで富山市米田町二丁目の赤祖父家に移されたが、破損を懸念した子孫の牛晃氏が6年前、市に寄贈を申し出ていた。
富山市は2015年度末完成を目指して城址公園の整備を進めている。日本城郭協会の日本100名城からは残念ながら選出漏れとなった富山城ですが、史実に基づいて復興されるのであれば楽しみに待ちたいと思います。