金沢研究調査室が金沢調査研究所へ格上げ

石川県教育委員会は平成19年度、既存の金沢城研究調査室(文化財課内室)を格上げして設置する「金沢城調査研究所」(学校以外の教育機関等)で、金沢城と全国の城郭との石垣構築技術に関する比較研究調査に着手する。手始めに石垣関連の文献が豊富な熊本城・細川家に焦点を当て、史料の解読や分析を進め、金沢城の独自性・希少性を見いだす。さらに金沢城に伝わる石垣積みの技術書を「石垣秘伝書」として現代語訳し、”最先端”を誇った加賀藩の建築土木の研究に、より多くの分野の専門家がかかわりやすくなる。
熊本城の石垣関連史料は財団法人の永青(えいせい)文庫が数多く保管しており、計画では金沢城調査研究所の所員が熊本に出向いて絵図や文献を調査する。加賀藩の石垣職人は他藩の職人と江戸城などの造成に携わっており、当時の「技術交流」で加賀藩から広がった技、加賀藩に影響を与えた技がないかも史料などから調べる。
現代語に訳される秘伝書は「後藤家文書」で、必要な解説を加えて新年度末までに刊行する。県教育委員会では、現代語訳でさまざまな分野の専門家が石垣研究にかかわれるようになり、金沢城の多面的・総合的な調査研究に弾みがつくとみている。
研究所の体制では、所長に城郭研究の第一人者である北垣聰一郎氏(元東大阪短期大学教授)迎えるとともに、全国の新進気鋭の研究者五人程度を客員研究員に委嘱。客員研究員は所定の研究計画のもと、助成金を受けて伝統技術に関する個別研究に取り組む。
これらの研究成果は十一月ごろに予定する「金沢城と伝統技術」をテーマにした研究所開所記念シンポジウムで、県民向けに分かりやすく発表する。
北垣聰一郎氏の著作 「石垣普請」
石垣普請

高岡 前田利長墓所に新事実

高岡市の前田利長墓所詳細調査事業協力者会議は27日、同市役所で開かれ、地中レーダー探査の結果、墓所を囲む堀の内側に別の堀が存在したことを推定させる痕跡が見つかったことが報告された。
現在の堀は明治時代には存在していたが、築造年ははっきりしておらず、同市役所教育委員会は堀の整備の変遷をうかがわせる資料として新年度に発掘調査を行い、解明を進める。高岡市は新年度に報告書をとりまとめ、2008年度に金沢市と共同で国史跡指定を申請する方針である。
利長墓所は現在、約67メートル四方の堀に囲まれているが、レーダー探査では、その内側に約50メートル四方の堀の跡とみられる土層の違いが確認された。墓の周りには土塁跡があることが分かっており、市教育委員会は土塁との境界に堀が造られた可能性があるとしている。利長墓所の堀については、金沢市玉川図書館近世史料館が所蔵する江戸後期の絵図では2つの堀が描かれ、内堀と外堀があったとされている。ただ、大きさや築造年など詳しいことが分かっていない。(北國新聞 2007年3月27日付記事)

金沢城 鶴丸倉庫の国重要文化財指定を目指す

金沢城公園内に現存する江戸時代の土蔵「鶴丸倉庫」は、全国で類似する建物が少なく文化財的価値が極めて高いことが分かり、これまで県文化財指定を視野に準備調査を進めてきたが、最終目標を国重要文化財指定に「格上げ」し、金沢の世界遺産暫定リスト入りへ核となる金沢城の価値を高めていく。県教育委員会は近く、県文化財保護審議会に価値の評価を求める。
県教育委員会は準備調査で全国の城郭に現存する江戸時代建造の土蔵をくまなく調べたところ、詳細が不明な1カ所を除くと二条城、大阪(大坂)城、高知城の六棟のみで、いずれも昭和二〇年代までに国重要文化財に指定されていることが判明した。いずれも平屋建てだが、鶴丸倉庫は二階建てと際立っており、建築面積も333平方メートルと最大だった。
城郭土蔵の国重要文化財指定が昭和前半に相次いだ中、鶴丸倉庫だけが取り残された理由について、県教育委員会は、「当時は調査研究が不十分で、建造時期も江戸時代ではなく明治期に旧陸軍が建てたとの説が強かったため」とみられる。(北国新聞2007年3月14日付記事)

信長が贈った安土城の屏風

織田信長からローマ法王に贈られた安土城の屏風絵を捜すためローマに滞在中の若葉みどり(千葉大学名誉教授)らは9日、屏風は1592年までの7年間、バチカンに収蔵されていたことが分かったと発表した。
屏風は伊東マンションら少年4人の天正遣欧使節が1585年3月、当時の法王グレゴリオ13世に献上したが、現在は所在が分かっていない。今回の調査で、1592年7月13日にベルギー人の骨董収集家ウィンゲが、バチカンの「地図の画廊」で屏風をスケッチしたことが、ウィンゲの書簡から分かった。18世紀にフランスのイエズス会士が出版した本には安土城の絵が載っており、屏風が法王からの贈り物としてフランスに渡った可能性もあるという。(北國新聞 2007年2月11日付記事より)

富山城址公園の園路を石畳に

富山市は、富山城址公園の園路を石畳に張り替える整備に乗り出した。城址公園の雰囲気に合う趣ある園路に衣替えし、魅力の向上を図る。石畳整備に併せて照明も取り換え、足元を照らすタイプの照明10基を新設する。(北國新聞 2007年1月17日付け記事)

金沢城惣構堀 藩政期の石垣初確認

金沢市は30日までに、尾張町二丁目の橋場交差点・枯木橋付近で進めている惣構堀の発掘調査で、江戸中期から後期に築造された複数の石垣を確認した。城下町を二重に囲む惣構堀で藩政期の石垣が確認されたのは初めて。惣構堀は藩政期以来、宅地造成などの影響で徐々に規模が縮小しており、現在見られる惣構堀の石垣は近代以降の築造と考えられていた。(北國新聞 2006.10.31付記事より)

全国の大名庭園、民間で交流協議会を設立

兼六園や岡山の後楽園など全国5ヵ所の大名庭園で、学習会やボランティアガイドに取り組む民間団体が、「大名庭園民間交流協議会」を結成することで合意し、26日に金沢で設立総会を開くことになった。当初は兼六園の一般向け講座などに取り組む金沢城・兼六園研究会が事務所を務める。協議会では毎年まちづくりに関するテーマを決めて活動や情報交換を行い、加盟団体が相互交流するなどして観光面でも協力していく。
加盟団体は以下のとおり。
兼六園(金沢市) 金沢城・兼六園研究会
偕楽園公園(水戸市) 偕楽園公園を愛する市民の会
小石川後楽園(東京文京区) 小石川後楽園庭園保存会
岡山後楽園(岡山市) 岡山藩郡代・津田永忠顕彰会
栗林公園(高松市) 栗林公園ボランティアガイドグラブ
(北國新聞 2006年10月24日付記事)

河北門復元 来月に専門委員会初会合

石川県は、金沢城の河北門の復元整備に向け、11月下旬に学識経験者6人で構成する専門委員会の初会合を開く。専門委員会では、同門の整備だけでなく、宮守堀の水堀化も取り上げる予定。県は設計段階に加え、工事着手から完成までの作業の節目ごとに、専門委員会を開いて助言を受けたいとしている。
県では、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓を復元する際にも、各分野の学識経験者を集めた「金沢城址の石垣、櫓に関する修築・復元専門委員会」を設置している。今回の委員は次の各氏。
北浦勝(金沢大学自然科学研究科教授)
北垣總一郎(元東大阪短大教授)
北野博司(東北芸術工科大助教授)
中村利則(京都造形芸術大教授)
新谷洋二(東大名誉教授)
平井聖(昭和女子大学長)
(北國新聞 2006年10月24日付記事)

金沢城跡玉泉院丸南西石垣現地説明会

現地説明会 現地説明会
玉泉院丸南西石垣の解体修築に伴う現地説明会に行ってきました。当日は晴天にもめぐまれ、多くの見学者が集まったため、2班に分かれての説明となりました。工事を担当する方から石垣の積み直しをどのように行なっているのかなどの説明を聞きました。40年前まではここにも石川門の周りにあるような土塀があったという話もありました。今回の工事部分の裏側から絵図にない石積みも発見され、特徴から初期のものだそうです。
現地説明会 絵図にない石垣
鼠多門石垣 鼠多門石垣
後半は、玉泉院丸を外側から説明を受け、鼠多門のあった部分の石垣の説明を受けました。この石垣はいままで草に覆われていて様相がはっきりと判別できない状況にありましたが、今回すっきりと石垣が見えるようになり、橋のかかる部分の石垣が力に耐えるように加工されている様子などを確認できるようになりました。

金沢城 藩政期の石積み技法 明治期にも

金沢城公園の玉泉院丸南西石垣が明治期に補修された際、藩政期の石積み技法が用いられていたことが20日までの石川県の調査で確認された。県関係者は明治時代の石工が藩政期の石積み技術を継承していたことを示す貴重な史料になるとしている。県は修復のために7月から解体工事を進めており、今回は石垣内部から出土した石の加工跡などから、石垣が江戸後期から明治期にかけて4回、部分修理されていることが分かった。
石垣の背後から江戸前期の盛り土で埋め立てられ、絵図に描かれていなかった金沢城初期の石垣も見つかった。(北國新聞 2006年10月21日付記事)