先日の日曜日は前日の余勢を駆って、残り少なくなった金沢まちしるべ巡りを続けてしてきました。金沢駅南周辺を歩きましたが、道程にちょうど長田神社があったので行程に組み込んでいました。
長田神社の祭神は天神様です。加賀藩初代藩主の前田利家が菅原姓を名乗っていたこともあって、金沢には数多くの天神宮があります。長田神社もそのひとつなので、外鳥居の石碑は「長田菅原神社」となっていますが、内鳥居の石碑は「長田天満宮」となっています。
この長田神社は数少ない金沢城の遺構です。とはいっても、城建造物ではなく、城内にあった東照宮の一部です。東照宮の本殿・拝殿は、金沢城に隣接する尾崎神社の本殿・拝殿となっていますが、長田神社の拝殿は東照宮の護摩堂といわれています。
今春外観の塗り直し修復が終了したということで、地元新聞にも載っていましたので、まだまだ色鮮やかな懸魚や蛙股の彫刻を見ることができます。尾崎神社も元はこのような色彩だったことでしょう。
金沢城からは遠く離れていますが、金沢駅からは15分ほどの場所にありますので、興味ある方はぜひお寄りください。
投稿者: Tadashi
金沢城河北門 工事はいつ再開?
金沢城河北門復元整備事業の一翼を担ってきた真柄建設が民事再生法の適用を受けた最初の週末です。土曜日は工事をやっていることも多かったですが、今日はお休みです。
二の門石垣は6月末の現場説明会のときと変わっていません。
ちょうど養生中ということもあり、7段積んで、最終の8段目を積む石は、脇でスタンバイした状態ですが、いつ再開して積まれることになるでしょうか。
地元新聞では、河北門工事は工期がまだまだ先であるため、再開優先度は低く設定されており、今後の成り行きによっては発注業者を変更することもあり得そうです。この一騒動が、12月に予定されている寄進イベントに影響なければよいですが・・・。日程がずれて真冬開催だけはやめて!
土木・建設業界の不況は城郭復元にとっても対岸の火事ではない
5日、石川県内最大手のゼネコンである真柄建設が民事再生手続を開始しました。同社は今復元真っ只中の「金沢城河北門復元工事」の担当会社の一つでもあります。石川県内では、昨日完成式の行なわれた「東内惣構堀枯木橋詰遺構」を担当していた会社が昨年末に倒産して、完成が3ヶ月遅れたばかりです。金沢城河北門は予定通り北陸新幹線が金沢に来るまでに完成するでしょうか?
東内惣構堀枯木橋詰遺構 完成
本日ようやく東内惣構堀枯木橋詰遺構が完成しました。東内惣構堀枯木橋詰遺構は、4つある金沢城の惣構の1つで、浅野川に注ぐ直前の部分にあたります。
完成式は、金沢市長や地元町内会長などを迎え、テレビカメラも何台も来ているなかで行なわれました。
最後に遺構の前でテープカットをして終了しました。その後、向かいの文学館で完成記念講演会が行なわれました。
予約していた40名が参加して、講師として金沢学院大学大学院 玉井信行氏を迎えて、「金沢城惣構堀について」というテーマで一時間の講演が行なわれました。
1598年 内惣構堀の築造
1610年 外惣構堀の築造
1632年 辰巳用水の築造
1640年代 鞍月用水の築造
源太郎川と途中から重なる東内惣構堀以外は、用水の完成により水が入れられたようです。江戸期を通して堀幅は徐々に縮小されはしたものの、堀は排水路として使用され続けたため今に残っています。つながって水が流れていないと用を足さない排水路としての役割は、貴重な堀の大部分をそのままに残しましたが、西の内・外の一部は武蔵が辻周辺で切れてしまいました。
金沢城東内惣構堀 柿木橋詰遺構復元工事完成式
城下町金沢の歴史資産である惣構堀について、文化財指定を視野に入れ、現地調査及び発掘調査を行い、その結果を踏まえ可能な場所で復元整備を行うことにより、金沢の貴重な歴史遺産の保存・活用を図っていきます。このたび、平成18年度からの発掘調査に基づき、本市初の惣構堀の復元整備工事が完成します。
完成式
日時 平成20年7月5日(土) 午前10時から
場所 東内惣構堀 柿木橋詰遺構(尾張町二丁目地内)
整備のコンセプト
1 発掘調査結果に基づいた、堀の石垣及び土居の復元整備
2 堀幅の変遷や惣構堀の規模がわかるような整備
3 見学所として気軽に立ち寄れ、歴史を感じ取れる整備
東内惣構堀とは・・・
城の防御のための堀で、慶長四年に加賀藩二代藩主前田利長が高山右近に命じて築造させたといわれています。小将町~兼六元町~主計町の延長約1.3kmです。
金沢城の遺構 中村神社の本殿
今日の石川県は雨模様です。昨日は晴れてて良かった。金沢城河北門の現場説明会の前に、まちしるべ標柱めぐりをしてきました。そのコース上にあった念願だった中村神社にも寄りました。
中村神社の本殿は、金沢城の数少ない建造物の遺構のひとつです。
それは城内にあったといわれる「能舞台」です。訪ねてみると、ひと目でただの神社の建物ではないとわかります。精密な欄間細工、そして鮮やかな格天井。
格天井は格式の高い折上げ格天井です。前田家の家紋である「梅鉢紋」も見られます。
本殿奥の間には、藩政期のものでしょうか?古い格天井の天井絵が額に飾られています。
思っていたよりもすごかったので、土曜の昼間誰も居ない本殿で写真を撮りまくってしまいました。仏様、お騒がせしました。
中村神社の前に、神明宮を通りました。ちょうど「夏越大祓」神事の開催日で、どんな行事かなと見てきましたが、本殿前に茅で作られた大きな輪が置かれていました。まだ準備中のようでした。いろいろと神事がありますね。
金沢城河北門復元 第一回現場説明会 石垣工事編
梅雨の最中に行なわれた金沢城河北門復元整備の第一回現場説明会ですが、雨が降らなくてよかったです。申し込みは午前・午後それぞれの部で20人だったと思いますが、大勢の方の申し込みに実際は40人と倍増したようです。私は午後の部で参加しました。
二の門石垣は先週から変わっていません。特に天候の悪い日が続いたわけでもないのに・・・、と思っていましたが、説明会で現在はしばし養生中だということがわかりました。
今回は二の門石垣がほぼ整備完了となったことで、「石垣工事」の説明会とのことでした。参加者にはたくさんの資料が配布されました。資料には整備計画の進め方や復元の方針などが書かれています。
しばらく休憩小屋前で説明を聞き、ヘルメットを着用していよいよ石垣付近に移動します。二の門石垣は現在7段積まれていますが、8段で完成です。
二の門石垣の間で金沢城石垣に使われている「戸室石」について、生産現場や特徴を聞きました。河北門二の門石垣は切り込み接ぎという手法で切石をぴったりと重ね合わせて積まれます。そのために、設計図どおりの型をベニヤ板で作成するそうです。昔も木型を使用していたようで、昔から苦労して積んでいたんですね。
切り込み接ぎは離れて見るとぴったりくっついているように見えますが、実は3ミリほど離れています。これは全面でぴったりあわせると、後々石が割れやすくなるので、10センチほど奥に接点がくるようにします。河北門と同型の国重要文化財である石川門を帰りに確認してみると、確かに間が空いていますが、昭和30年代の文化庁の修理工事のときに埋めてしまったところもあるようです。なんてことを!
河北門二の門
石川門二の門
話を戻して、ひととおり説明が終わったあと、しばらく自由時間が取られました。二の門、一の門をひとおり間近に見ましたが、二の門が進まぬ間に一の門は着々と積み直しのために、石が外されて、東側は根石が見えるまでになっていました。
さて、次の写真は南側石垣の東面です。この面は奥に復元された菱櫓が見てる視点として、古写真として唯一往時の石積みが確認できるところです。今回の復元ではこの面については、この古写真と同じ積み方にこだわったそうで、まだ足場があるのでよく確認できませんが、完成の暁には古写真と比べて楽しめそうですよ。
自由時間のあと、石割の実演や表面加工の体験がありました。
非常に有意義な説明会でした。今後は、「木工事」「左官工事」「屋根工事」と機会があるごとに説明会が開催されるようです。また、しばらくすると木工事が始まりましたが、その前に被さるように上屋がかかるそうです。菱櫓のときは中に入ることはできませんでしたが、今回は上屋の中に見学場所が設けられて、引続き工事の見学ができるとのことで、楽しみです。
説明会が終わってから、引続き希望者に隣で行なわれている石川門保存修理の現場説明会が開かれました。参加者の半分の方が残って説明を聞きました。私は前回の石川門の説明会には参加できませんでしたので、初めて見ることになりました。
中は、北側の新丸側が一部修復されている途中で、大部分の塀の木組みは外されたままでした。修復された木組みを見ると、真新しい木材には「平成十九年度補修」の焼印が、少し古い木材には「昭和三十二年度補修」の焼印が見られます。それ以外は昭和の保存修理以前の木材のようです。
今回は、石垣側の足場にも入れていただけました。普通は絶対に間近では見ることができない、「出し」全面の梅鉢紋も近くで見ました。貴重な体験でした。
七尾城跡 石垣修復9月完了
昨年の能登半島地震で崩落した国指定史跡・七尾城跡の石垣が、9月上旬に修復を終える見通しであることが26日の同石垣修復委員会で報告された。城跡は昨年10月の豪雨でも18カ所で土砂崩れし、一時は修復のめどが立たない状況となっていた。9月13日に始める能登畠山家創立六百年事業に何とか間に合う形となり、市関係者らは胸をなで下ろしている。
市は9月13日の七尾城ウォーク、14日の城山まつりなど、能登畠山家が能登一国の守護となり六百年の節目を祝う一連の記念事業に間に合わせたいと、協議を重ねていた。(北國新聞2008年6月27日付記事)
金沢城 河北門二の門石垣の工事は大詰め
金沢城の河北門復元整備は、二の門の石垣工事が大詰めを迎えました。先々週、積まれた段が違っていた南北の石垣も、ともにちょうど鉄骨の隠れるスレスレの位置まで積み終わり、後一段?残すのみとなっています。
番号を付けてシートが被せられていた一の門石垣も工事が進められ、石垣が外されて低くなっていました。
来週はいよいよ一般向けの現場説明会の第一回目が開催されます(すでに申し込みは終わっています)。先週末に北陸も梅雨入りし、天候が心配されるところではありますが、おそらく二の門石垣についての説明会となることでしょう。
足場が組まれていて、興味は積まれていく石垣の高さに注目がいくことが多いと思いますが、最下部の根石を調整する小さな石は今日現在すっかり見えなくなってしまいました。高さで中の栗石も見にくくなっていますので、外見上は大きな石がすでに主役です。
金沢城・兼六園研究会 6月例会講演会
今日は夏至、最も陽の長い日です。先週末に北陸も梅雨入りしましたが、ちっとも雨が降りません。明日以降は少し降るでしょうか?
さて、今日は金沢城・兼六園研究会の6月例会でした。今日は9月の大名庭園民間交流水戸サミットに向けて、「加賀藩の茶道」を勉強しました。講師は茶道裏千家教授、石川県茶道協会代表理事である大島宗翠氏です。
茶の湯や茶道については門外漢の自分ではありますが、中世以降は政治と深く結びついた茶の湯の話を興味深く聞きました。金沢では外様最大の石高として藩主のみならず、家臣や町人も茶の湯をたしなんだということで、城下に茶屋街が3つもあるのも特別なことでしょう。
そういう経緯からも旧加賀藩領にはたくさんの茶室が残っていたのですが、茶室は他の部屋に転用の効かないもののため、調査される度にその数は減少しているとのことでした。