武田家、城下町で金加工? 甲府で金付着土器発見

甲府市は9日、戦国時代の武田氏館周辺の城下町遺跡などで発掘した土器片58点に金が付着していたと発表した。金は土器の上で加熱された際に溶けて付着したとみられ、城下町で金が加工されていたことを示している。市教育委員会は、複数の金山を有し天下取りをうかがった武田家の財力や金の流通過程を探る貴重な資料になるとしている。
市によると、戦国時代の城下町遺跡で金が付着した土器片が見つかったのは、七尾市の七尾城跡で出土したのに次いで2例目。武田家の資金源の一つとされる黒川金山(山梨県甲府市)や湯之奥金山(山梨県見延町)などで採掘された金が城下町の甲府に集められ、工房で装飾品などに加工された可能性が大きい。(北國新聞2009年1月10日付記事より)

今年度の加賀藩塩硝蔵発掘は・・・あれ?

今日は自宅周辺で作業停電がありました。すっかり忘れていましたが、停電で車を車庫から出すこともできなくなったので、午前中はサーバーを消したり付けたり、電化製品の状態を確認したりしていました。こんなときはオール電化の不便さをしみじみ感じますね。
昼前に家を出て、仕事に行く前に涌波の加賀藩塩硝蔵発掘現場の様子が気になって寄ってみました。
加賀藩塩硝蔵発掘
予想はしていましたが、発掘現場はすでに埋められていました。今年も現場説明会には参加できませんでした。あったのかな?
加賀藩塩硝蔵発掘
加賀藩塩硝蔵発掘
今年どのくらい解明されたのか、調査報告書が楽しみなところです。来年度もあるのかな?

津幡検定 22人に「源平合戦」合格証

昨年12月8日に実施された地元津幡町の検定は勉強不足のためパスしたが、今日その状況が新聞に載ったので紹介したい。
津幡町刊行協会が先月に実施した第1回「津幡ふるさと検定」の合格者が6日までに決まり、22人の合格者には丑年の幕開けにふさわしく、倶利伽羅合戦の「火牛の計」をモチーフにした合格証が贈られた。受験者39人の合格率は56%だった。合格証は名刺サイズで、倶利伽羅神社が所蔵する「源平倶利伽羅合戦屏風」の一部分を使用し、津幡らしいデザインとした。
検定は四択の問題五十問(一問1点)が出題され、40点以上で合格となる。最高点は48点、平均点は39.4点だった。町制定の鳥を尋ねる問題(答え・ハクチョウ)など全員正解は八問。一番の難問は津幡川の大改修の年(答え・昭和42年)で、正答率は10%だった。初回は初級のみの実施で、新年度に計画する第二回検定では、より難易度の高い級の新設を検討する。受験者には小中学生がいなかったため、町では「次回は児童生徒にも検定を呼び掛けて、受験者数を増やしたい」と話している。

辰巳用水 開削目的は玉泉院丸の庭園泉水用か?

石川県は新年度、金沢城公園玉泉院丸跡の整備で、辰巳用水開削の歴史にメスを入れる。1631年の「寛永の大火」で、加賀藩三代藩主前田利常が城下町の防火体制を強化するため開削したとされる用水だが、玉泉院丸で造成した庭園の泉水を確保することが狙いだったとの説もあり、県は8月に「金沢城玉泉院丸跡調査検討委員会」を新設し、庭園と用水の関係を洗い出す。
犀川上流から取水する辰巳用水は、現在は兼六園までだが、藩政期は城内まで水が届けられた。大火を契機に城内に水路を巡らせたものだが、こうした経緯に加賀藩の石垣技術者、穴太方・後藤家6代目の彦三郎が疑問を投げ掛けている。県金沢城調査研究所によると、彦三郎は家伝書で「高石垣等之事」と題して「(用水が)防火のためというのは名目で、城内の水が乏しく、泉水のために開かれたのではないか」と指摘している。
玉泉院丸跡は1961年に旧県体育館が建てられ、これまで本格的な調査は行われていない。県教育委員会が昨年暮れに体育館背後を予備調査したところ、藩政期の土層が確認され、明治以降も改変されていないことが判明した。2月の体育館撤去後の埋蔵文化財調査で、庭園の遺構をどれだけ解明できるかが課題だが、仮に寛永期以前に用水が引かれた痕跡が見つかれば、大火後に開削されたとする辰巳用水の歴史に一石を投じることになる。(北國新聞2008年1月4日付記事より)

福徳のなかは・・・

昨日は出かけたので1日空きましたが、今日福徳せんべいを開きました。おみくじと同じで中身の分からないものを開くのはワクワクしますね。
福徳煎餅
福徳煎餅
まずは鈴型?から。なかは「大黒さん」の金花糖でした。
福徳煎餅
次は俵型です。なかは「起き上がり人形」の金花糖と、トリの土人形でした。おお、こちらの土人形はビニール袋にも入らずに、そのままですね。まあ私は気になりませんが、福徳宝船はやはり高級品らしくビニール袋に入っているようです。
福徳煎餅
最後は小槌型です。なかは「鯛」の金花糖と、かぶら?の土人形でした。
福徳煎餅
狙った招き猫の土人形は当たりませんでしたが、土人形は2個ゲットしました。来年の楽しみにしましょう。
そういえば、今回福徳を買ったときに、森八さんにも福徳が売られていることを知りました。来年はその福徳と、福徳せんべいにしようかな。

富山城 天守築造目指す

藩政期、富山藩が富山城整備にあたり、天守の築造を目指していたことが明らかになった。富山城址公園の発掘調査を進めている富山市埋蔵文化財センターが2日までに、同公園南東側の一角で、天守を築く基礎となる天守台とみられる盛り土を確認した。天守台の存在を裏付ける発掘資料の発見は初めてで、富山藩が天守整備を念頭に本格的な工事に着手していた事実が浮かび上がった。
富山藩は1661年、幕府から天守築造を許可されているが、数多く残る江戸期の富山城絵図に天守は描かれていないため、富山城には天守は建てられなかったと考えられている。(北國新聞2009年1月3日付記事より)
*記事では現在使われなくなった「天守閣」を使用していますので「天守」と修正しています。

金沢城 いもり堀工事&玉泉院丸の現在

金沢城宮守(いもり)堀の水堀化工事は正月休みですが、作事は普請ほど短期間ではわかりやすい変化はありませんね。雪が降る日も多いので休み明けでもしばらくは工事は進まないかもしれません。
いもり堀水堀化
いもり堀水堀化
翻って、旧いもり堀沿いの玉泉院丸ですが、体育館解体工事は年末に急ピッチに進められ、あっという間に建物はほとんど撤去されてしまいました。
玉泉院丸
しかし、郭ひとつが更地になると広いものですね。市街地からの玄関口としてどう整備されるのか楽しみです。
玉泉院丸

金沢城 河北門復元整備&橋爪門正月飾り

今日は違う角度の写真から復元現場案内を始めましょう。
金沢城河北門
正門である大手門のある新丸から見上げた現場の様子です。
金沢城河北門
こちら側は見てのとおり囲いしか見えない状態であったので、しばらく来ていませんでしたが、いつの間にか一の門の石垣に沿う大柱が立てられていました。
金沢城河北門
石垣を積んでいた二の門とにらみ櫓台をつなぐ部分はほぼ積み終わっていました。2段で積まれているんですね。1段目はほとんど土塁で見えなくなりますので、今の状態は貴重な状態です。
金沢城河北門
金沢城河北門
二の門の木工事は、櫓の本体部分である「軸組み」をほぼ終わり、屋根をかけるためにその勾配を構成する「小屋組み」がかなり進んでいる状態でした。
金沢城河北門
上の写真では鉄骨に隠れて小屋組みは見えにくいですが、下の写真では分かるでしょうか。
金沢城河北門
橋爪門注連飾り
正月ということで二の丸御殿への正門である橋爪門には、藩政期の注連飾りが今年も再現されました。「数の子飾り」っていうのですよ。
橋爪門注連飾り
橋爪門注連飾り

金沢市指定民俗無形文化財 加賀万歳(かがまんざい)

兼六園
北陸特有の重い空です。今日は昼から出かけて無料開放中の兼六園にやってきました。初売りや初詣の人が兼六園にもたくさん流れているようです。
兼六園
兼六園
兼六園を出ようかという時に大粒のあられが降ってきました。今日は帰るまでに2回あられが降ってくるという冬らしい天候でした。
兼六園
今日の目的の第一は、金沢能楽美術館で開催される「加賀万歳」です。美術館も今日は無料公開です。初めて入りましたが、公演会場は3階の研修室ということでした。
加賀万歳
演目の始めは「式三番叟(しきさんばそう)」。一番初めに必ず演じられ、館の永久と主人の長寿を祝うものだそうです。
加賀万歳
2番目の演目は「町尽くし(まちづくし)」。金沢の町や寺社の名前を唄い込んでおり、金沢城周辺から、金沢の中心街、金沢駅周辺へと今ではなくなってしまった町名を含む数多くの町を巡るもので、今年の北國総研のふるさと講座でも話題のひとつとなるものですが、橋なども出てきましたね。
加賀万歳
3番目の演目は「北国下道中」。加賀藩が参勤交代のときの道中を唄いあげたもので、北陸道・中山道を通り江戸に至るまでの道中の名所名物を軽快にたどっていくもので、12泊の宿場が出てきました。
加賀万歳
アンコールで最後に「百人一首」が演じられました。
加賀万歳
今回初めて本物の加賀万歳を見ましたが、非常に楽しいものでした。万歳というだけに合間に小話の掛け合いなどもあり、こんなに面白いものであれば来年も見に行こうと思いました。
加賀万歳
今日は3箇所の初詣に行きました。
尾山神社
尾山神社は大勢の参拝客であふれていました。
尾崎神社
近くの尾崎神社は人もまばらでした。
金沢神社
学問の神を祀る金沢神社は列が長かったので諦めました。
尾山神社
今日は尾山神社でおみくじを1つ買いました。

名古屋城、堀泥さらい種探し

名古屋市は新年度、名古屋城の外堀で、絶滅した水生植物の復活事業を検討している。おそらく1610年の築城以来初となる外堀の底泥調査を行い、種子を探す。2010年の生物多様性条約締約国会議(COP10)の名古屋開催をにらみ、40年前まではふつうにみられた直径2メートルもの葉を広げるオニバスをはじめ、かつての豊かな植物群の復活をめざす。
ため池の自然研究会会長の名古屋市緑区、元高蔵高校校長、浜島繁隆さん(75)によると、広さ8万平方メートルのお堀の水面は60年代まではオニバスはじめ、ヒシ、ガガブタなど多くの浮き葉で覆われていた。地下水が豊かで、濃尾平野の水生植物のほとんどをみることができる場所だった。しかし水質悪化のため、69年に17種類あった水生植物が、82年には13、95年には5と激減、いまではみる影もない。 これに対し、市が99年から工業用水を連日注入するなどしており、汚濁度を示す化学的酸素要求量(COD)は92年の1リットルあたり12ミリグラムから08年夏は7.4ミリグラムまで回復した。これなら水生植物の復活が可能だ。
計画では、お堀の20~40カ所で底の泥を取り、年代も測定しながら種を探す。当面の目標は、水質悪化以前で発芽も十分可能な40~50年前の種の発掘だ。お堀は江戸時代に池の底さらえをした記録がなく、45年空襲で城が焼けた時のすすより下層の泥からは、かなり古い種が採れるかもしれない。 種は発芽させ、水面によみがえらせる。鳥の食害や、堀の白鳥やコイのえさで水質が悪くなるのを防ぐため、ネットを張るなど防御策も検討する。
浜島さんは「同じ種類の植物でもDNAレベルでは異なる。よそから移植するのではなく、もともとここで生きていた植物を種から復活させられれば、意義深い」と語る。 (asahi.com2009年1月2日付記事より)